ペピン結構設計の「マルチメディア」

 STスポット周辺で活動しているグループにちょっと関心を持っていて、この劇団のこともちょっと気になっていた。前にも、この劇団も参加したオムニバス公演を見たことがあって、そのときはあまり気に入らなかったのだけど、そのときの作演出は、主宰者の石神夏希さんではなかったということで、石神さんが作演出する今回の作品も見てみようと思った。確かに、前回見たときよりははるかに完成度が高かった。
 内容的には、さびれつつある首都圏近郊の古い商店街でそだった幼なじみグループの間の青春群像を、時代の変化の中で捉えよう、というもの。昭和天皇崩御のときに拾った犬(ドラえもん、と名付けられている)の死、その死にショックを受けて話さなくなってしまった女の子をめぐるやりとり、商店街活性化のために、潰れた映画館に進出する「マルチメディアランド」に反対したい若者たちが、自主映画の映画祭を開催しようとしたりする。今の天皇が死んで平成が終わる日、それが「マルチメディアランド」のオープニングに重なる、といったプロットの作品。

 若者達の日常を、等身大の演技でそれなりに繊細に描き出すことには成功していたと思う。そういう所に力量はあるとおもう。それぞれの生き方や、生きる場所が、政治的、経済的な力によって否応なく変化させられてしまうという事を取り上げようという点でも、なかなか意欲的だとは思う。
 しかし、「天皇が死にそうなんだって」、と言われて「グッ」と喉がつまってしまうとか、そういう仕掛けは結局ほのめかしでしか無いのではないだろうか。確かに、日本の人々は、肝心な問題を前にして、声をあげられなくなってしまうものかもしれないけれど、そういう実状を描こうとする意志があったとして、なんだか、社会にはいろいろ問題があるよね、と示すことで、結局それを更に肯定する役にしか立たないような、そんな演劇作品になっていはしなかっただろうか、という思いがした。
 ひょっとすると、80年代以降に活躍した女性劇作家の仕事を継承しよう、という意志が自覚的にあるのかもしれないけれど、むしろ、80年代以降ドミナントな演劇の様式を批判するところに、独自の作風を見出して欲しいなあ、と思う。たとえば、演劇が所々で軽く笑えるものでなければならないなんて思い込みを排除したところで作品がつくれないだろうか。演劇が立ち上がる場所を、もっとダイレクトに掴むアプローチはないんだろうか。どうも、この作品をみていて、既存の発想や方法論を優等生的に器用に使っているという風な印象も残ってしまった。しかし、それを突き抜けそうな表現への意志みたいなものもかいまみえた気もするので、ちょっとこのさきこのグループが才能をどのように発揮してくれるのか見守って見たい気もする。

 作・演出の石神さんが元NOISEの人たちがやっている別の劇団の、芥川龍之介をテーマにした作品に出ているのは見たことがあって、なかなか達者だなあ、と思ったけれども、今回も、嫌味な女の役をなかなか巧みに演じていた(巧みさが透けて見える程度には巧みに)。これも、役作りの難しい役をあえて自分が引き受けて、等身大で演じられる役は他のメンバーに当てて書いたという感じなのかなあ、と思いつつ帰った。

(初出「些末事研究」/再掲2010年3月10日)