ヌーヴェルじゃないプレルジョカージュ

新国立劇場にプレルジョカージュの二作品を見に行く。以下に、見ながら思った事など。

・ヘリコプター

 シュトックハウゼンが、ヘリコプターに弦楽四重奏団を乗せて録音したっていう曲に振付けた作品。なんか、この音楽もコンセプト的にはばかばかしいと思う。
 センサーがダンサーの動きをとらえて、波だとかをあらわしたCGを床面に投影するというしかけで、ホントにダンサーの動きにあわせて波が立っているように見えたりする。
 いや、テーマパークのアトラクション的には面白いなあ、と思いましたが、ダンスの見せ方としてはどうなのか。映像とマッチさせようとかいう配慮も計算もあまりなくて、なんだかなあと思った。おお、CGが動きに反応してるなあ、なんて思っていると、ダンスが目に入ってこなくても退屈しない。ということは、ダンスの方がまけてるってことではないか。そんな状況で、映像にマッチしない妙に細かい振付を律儀に踊っているダンサーの姿は、なんだかダンスなんてもの自体ばかばかしいものなんじゃないかという感慨を呼び起こす。ベルクソンも、音楽を消して舞踏会をみれば、優美な踊りも滑稽に見えるなんて事を『笑い』で言っているけれど、そういう意味では、究極のおバカ系(foolish)っていうか、お道化(fool)たダンス作品かも。大いに笑うべき。

春の祭典

 緑の丘みたいなセットが、正方形のユニットの組み合わせでできていて、それぞれのユニットは一人のダンサーが横たわれるくらいの正方形。それが9個くらいあって、キャスターで移動することで、長方形になったり、正方形になったり、間隔を隔てて整列したり、舞台の配置が変わっていく。そんな舞台装置は面白かった。
 バラバラに舞台上に配置された丘ユニットの上で、女性ダンサーが悶えてみたり、荒々しい恋いたすじゃないコイタスの場面が演じられたりしたり、ピンスポットに浮かび上がるそれぞれの丘の情景とか、視覚的にはきれいだった。
 激しい息が落ち着いたあと、丘がいったん排除されて、ホリゾントのほの明かりに浮かぶシルエットだけで踊られる場面も、まあ、美しくはあった。
 ラストは、犠牲になる一人の女が裸にむかれて激しく痙攣的に踊るという場面で、そこには、振付的にも、ダンサーの全力の動きを力強さとして受け入れられるだけの振りのフォルムが造形されてはいた(と思う)。
 しかし、全体としては、どうも散漫な印象。女性ダンサーが、白いパンツ脱ぐところから始めるとか、いかにもな象徴的表現は、あざといだけじゃないか。(実際は、脱いだパンツの下にも衣装付けてたわけだけど。)
 パリ在住の関口涼子さんが、『etc.』の連載「日記にゃっき」で、フランス人の友人達が、ポルノ映画をビデオですら見たことない人ばっかりで、日活ロマンポルノの話をしたら変態扱いされたみたいなことを言っていたけど、そんなことを思い出しながら、あのくらいのあからさまな性的な表現も、フランスの田舎のブルジョワな方々は、高尚な芸術というヴェール越しに未だに過激なものとして受け取っていたりするのだろうかなどと考えてみたり。

 でも、エンディングの余韻の残し方だとか、それなりのセンスはあるよなあと思う。春の祭典の、犠牲となる女性ダンサーの、激しい息使いが自然とおさまりながら暗転して終わるというエンディングも、供儀=死、みたいな連想をずらしてるようにも思えた。(逆に言えば、センス一発でやってて原理を欠いているヌーヴェルダンス勢はまぐれ当たりを狙ってるだけ的な浅田彰の評言は全く正しい。どこで読んだか忘れたが)

 そうはいっても「婚礼」の時から全く進歩してないなあ、というか、むしろ作品の凝集力は落ちているというか。作品自体の問題というよりも、新国の舞台空間とうまくなじまなかったという事もあるのかもしれないけれど、しかし、ヌーヴェル・ダンスももはや一時代前のものであって、それを相変わらずやっているなあ、と確認しに行った、という感じ。全く予想通りではあったのだけど。

 プレルジョカージュは、フランスの地方の国立振付センターかなんかを拠点にしているわけだけど、どうも、国が舞台芸術文化を地方に分散させるっていうアンドレ・マルロー以来のフランスの政策も、作り手が安住できる場所を与えてしまう結果となって、最近は逆に創造性を鈍らせ停滞を招くという感じになってきてるという話なんだけど、ほんとにそうなんだろうなあ。

(初出「些末事研究」/2010年3月11日再掲)