劇団態変を見る

 新宿の劇場、タイニイアリスに劇団態変の公演を見に行く。身体障害者だけの劇団として有名で、何年か前TBSで紹介しているのを見たこともあったが、舞台を見たことはなかった。一度は見ておきたいと思って足を運んだ。
 それぞれの障害の程度や種類は様々で、自由に歩ける人もいれば、のたうちまわるだけしかできない人もいる。腕の先が無い人もいれば、肢体が捻れてしまっている人もいる。

 やはり舞台芸術なので、「差別」せずに舞台芸術として見たいわけだが、障害者差別のことなどをあれこれ考えてしまう。やはり、他の舞台について語る時よりも身構えてしまう。考えが足りない所、認識の不足などもあるだろうけれど、観劇後考えたことをできるだけ素直に語ってみようと思う。

 劇団のメンバーに、腕が上腕の途中で萎縮するようになって、そこから指になりきらない突起が生えているような身体の人がいて、この人の動きはテレビで見たときも美しいと思ったのだけど、下半身は健常者とかわらない運動能力があって、激しく回転しながらの踊りでは、短い腕だからこそ可能なスピード感が生み出されていた。
 それぞれの人のパフォーマンスに、それなりに感銘を受けたり、キャラクターの強さを感じ取ったりするとき、健常者、障害者の違いは別にして、パフォーマーとして見ることはできる。もちろん、萎縮したり硬直したりねじまがったりしている身体に特異な印象を覚えなかったと言えば嘘になる。けれども、表現行為が始まれば、身体の質の上に、パフォーマンスの質が浮かび上がってくる。表現の質、パフォーマンスの質をこそ見なければならない、という思いも働いていたかもしれないけれども。

 上演のサポートのために、歩けない人を運んだりする健常者が黒子として舞台に上がるのだけど、ひとつ気になったのは、黒子の仕草は時にはあえて暴力的に演じられる場面があった点だ。そういう表現が、同じ舞台を作る者同士の信頼関係の上に成り立っているだろう事は当然推察できることだ。その上で、このことについて考えてみたい。
 健常者は全て黒子とする、という点で、作品構成自体は、差別の構造を前提している。これは、差別の告発として機能するものなのだろうか。健常者が悪役として登場する舞台のあり方に、かすかに嫌な気分を感じはした。それは、アメリカ映画で黄色人種が悪役として登場した場合に感じるかもしれない嫌悪と同質のものだっただろうか。とすれば、やはり僕の中に、自分を健常者と意識する差別の感情があるという事だろうか。障害者の立場からすれば、社会の現実は、今でも健常者を迫害の加害者として表現させるものなのだろうか。いや、事態はそれほど単純ではないだろう。
 健常者と障害者が、一応対等の立場で舞台にあがるイギリスのダンスグループCanDoCoとちがって「身体障害者だけの劇団」を標榜している劇団態変は、実際には常に社会にあり続けるであろう差別の構造を舞台の上で消し去ろうとはしていないということだ。
 舞台に描かれる内容以上に、態変の作品は、障害者として生きようとする仕方を自ら勝ち取るという姿勢と切り離せない仕方で成り立っているということなのではないかと思う。

 はぐれた姉妹(?)が彷徨し、再開するのを繰り返すというようなプロットを下敷きにした「イメージの演劇」的作品、とでもとりあえず形容できる舞台だったのだが、それぞれのパフォーマーの上演行為の質を別として、作品全体をそのものとして考えるとそれほど画期的とも思えない。映像も使われていたりするが、一時代前のアングラ演劇だったり舞踏だったり、かつての前衛的な作品構成の考え方がベースにあるように思える。
 前衛的な舞台芸術の営みが、既存の価値観を相対化したり、作品の基盤や土台となるものを新たに開拓する試みを続けていたからこそ、「標準的」ではない身体による表現を舞台作品として構成できるようになった、とは言えるだろう。
 もちろん、障害者が舞台に立てるようにするまで導く手法は主宰者である金満里氏が独自にあみ出したものなのだろう。20年にわたって障害者の劇団を運営してきた努力も、並大抵なものではなかったと思う。
 しかし、そういう事とは別にして、劇団態変が芸術という制度、芸術という発想を、障害者が障害者として生きる場所を切り開くために活用している、その事自体に意義があるのではないか。
 近代的な福祉の充実が、逆に障害者を障害者の場所に閉じこめてしまう、という側面もあっただろう。バリアフリーという言葉も定着してきてはいるけれども、壁が見えなくなることが、差別の構造を見えない形で存続させることにならないとも限らない。
 現状がそのようなものであるとして、劇団態変の試みは、芸術というツールを活用して、身体障害者が自分から様々な場所に入り込んで行く、そういう運動なのではないかと思う。そういう意味では、今では力を失ってしまったかのようにも思える前衛芸術の可能性を、もっとも正当な仕方で継承しているのが劇団態変である、といっても、的外れではないと思う。
 表現様式が少々古くさい、といった事は、競い合う身体障害者劇団があるわけでもない現状で、常にパイオニアとして舞台表現を模索してきた事を考えあわせれば、取るに足らない事なのかもしれない。

(初出「些末事研究」/2010年3月11日再掲)