Asia meets Asiaでイランとバングラデシュの演劇を見た

Asia meets Asia 演劇祭を見に行く。バングラデシュダッカの劇団Center for Asian Theatre の『Urubhangam』とイランはテヘランの劇団Theatre Baziの『The Mute Who Was Dreamed』の二本。上演後の交流会にも居残る。

 バングラデシュの作品は、マハーバーラタを題材にした作品。といっても、古典芸能ではなく、西欧近代演劇の演技術や演出法をベースに構成されている作品らしい。ダンス学校のPASで直前まで講義をしていたので、見たのは途中からだったのだけど、翻訳もなしで、現地の言葉で上演されたので、内容はぜんぜんわからなかった。
 印象としては、どうも、まずい新劇を見ているのと同じような、誇張された感情表現のわざとらしさばかりが目につくという感じがしてしまった。民族音楽的な、太鼓を使ったリズミカルな演奏に合わせて、歌や朗詠なども交えつつ、カラフルな布を使って舞台を様々に彩るというダイナミックな舞台構成ではあったのだが、伝統的なテーマや要素を非常に素朴な仕方で近代演劇的なフォーマットに乗せたという印象がどうしても残ってしまう。舞台を歩き回る俳優の歩き方とか、本当にただ歩いているだけだったりして緊張感がなく、伝統芸能的なスタイルの洗練はないし、演技としても、いかにも大仰な演技という風にしか見えなかったのだ。
 演出家はブレヒトベケットの事などにも通じている大学教授でもある、ということなんだけれど、知識として演劇の方法論を知っているかどうか、というところとは別の所で、ジャンルとしての近代演劇に関して、バングラデシュという国の文化的土壌は、まだ頽廃も行き詰まりも知らないからこそ、素朴にストレートな演出ができるのではないかな、と思った。今年見たバングラデシュのダンス公演も、もろに直球のモダンダンスというスタイルで民族的なテーマを扱うものだったのを思い出す。
 しかし、そうは言っても、狂言まわし的な語り手が舞台に向かって浪々と語りかける口調だとか、単純だけれどもある種ダイレクトに響く力強さはあって、そういうものが恥ずかしさを伴わずに上演できるというのは、なんというか羨ましいような気もした。

 それに対してイランの作品は、非常に洗練された現代的なものだった。用いられる音楽も、西欧のダンスミュージックやグランジ系っぽいロックもあったりして(イスラム圏を思わせる音楽やソロの弦楽器の生演奏もあったけれども)日本人もどっぷり漬かっている西欧的な同時代感覚にあふれている。台詞は一切無く、身振りによる演技で全てが進行する。「聾唖で盲目の少女が、教師に訓練と教育を受けているが、やがて、教育と教師に反抗するために教育で獲得したものを用いるに至る」とプログラムで説明されている。
 聾唖で盲目、と言っても、ある種のゴーグルとヘッドフォンを付けた出で立ちで演技がなされていたこともあって、生得的に聾唖で盲目であるというよりも、事後的な操作によって、生体実験のようにして感覚を奪われているようにも見える。
 舞台には金網で囲まれた空間が設定されていて、そこにHの横棒を長くしたように古びた木製の机が配置されている。その上にアヒルが一羽いて、少女が触れたり抱き抱えたりすることもある(動物も教材ということだろうか)。そういう、動物をずっと舞台に放置するような仕方も洗練されたものに思う。背後には、少女が町外れを歩き回っている様子をおさめたビデオが投影されていたりもする。
 オープニングには、黒く全身を覆った人物や黒い傘をさした人物が数名懐中電灯で客席を照らしていたりもして、その後も、金網の中の教師と少女の二人に対し、金網の前で舞台下手にすわった男が、懐中電灯で客席を照らしたり、舞台を照らしたりする。彼は、ある種の弦楽器を爪弾いたり、グルグル唸るような声を発したり、天井からのピンスポットに照らされた狭い領域で、両手を手話のように様々に動かしていたりする。その様子が舞台上の進行と重層的に展開する構成も、なかなかスリリングだった。
 金網の中での教師と少女の関係は、教師がマッチの火を近づけて少女がうめき声を発したりする場面もあったりして、教師の暴力的強制があるような風にも描かれるが、暴力性の描写も一面的に強調されるわけではなく、庇護するものとしての教師の慎重な配慮が示されているようでもある。どこか、抑制された身振りで全ては進行し、クリアに劇的空間が造形されているという印象がのこる。僕としては、そういうクリアな造形感覚を感じられる舞台が好みなのだが、そういう舞台はなかなか見られるものではなく、この作品の造形的な感触にはとても満足する。ブラザース・クエイの映像作品を思い起こさせる感じもあった。透明化され結晶化された冷ややかで静かな残酷さのイメージとでもいうか。
 教師の喉を刃物で切り裂き、金網の外に出ようとした少女は、ゴーグルを外して、しかし、驚嘆したまま凍り付く。という場面でおわる。そういう所の両義的な提示法も、洗練されたもののように思えた。
 全体としてはへたな日本の劇団よりもよっぽど現代的だよなあ、という良い印象を持ったのだけど、他のお客さんと話していると、洗練されたスタイルとはうらはらに、内容的には、実はそんなに深くないものだったのかもしれない、という風にも思いはしたのだが。現代的ということを裏返せば、わりと良く見る手法の作品、という事でもあるかもしれない。

 終演後の話によると、イスラム革命前のイランには、ピーター・ブルックとか、グロトフスキーとか、世界の著名な演出家が来る演劇祭があって、ワークショップなども行われていたのだとか。寺山修司も公演をしていたそうだ。イスラム革命後、国外の演劇はあまり紹介されないようになったが、最近は文化的交流もさかんになりつつあって、演劇祭もあるとのこと。そういう文化的な土壌が、欧米の舞台作品と比べても遜色ないような洗練された作品を可能にするわけだろう。

 終演後の交流会では、ほとんど日本の知人としか話さなかったのだけど、フェスティバルにボランティアとして参加した日本の学生や、通訳ボランティアをしていた留学生と、各国から来た演劇人とが別れを惜しみ、アドレス交換をしている情景を見られるのは、とても喜ばしかった。
 しかし、全体の記念撮影をするときに、微笑みを生もうということか、自然と歌が起こったりして、そういう所に日本にはない文化的な豊かさがあるよな、と思う。

(初出「些末事研究」/2010年3月11日再掲)