日本のバレエの新世紀

東京文化会館で開催された「四大バレエ団競演」を見に行った。見たのは3月2日のAプログラムと3月10日のBプログラム。これは、東京バレエ協議会に参加する四つのバレエ団が合同で企画した公演だ。

「四大」というのはバレエ団の規模の大きさから言えば嘘では無いのだろうが、この四つだけが大きさで飛び抜けているのかどうかは知らない。AとBを合わせて、20世紀後半の振付家を中心にバレエの流れを振り返るといったようなプログラムだった。

昨年までは、バレエの公演を見に行くことがあったとしても、それは振付家に興味をもった時だけだった。それが今は、バレエにすっかり魅了されてしまった。 牧阿佐美バレエ団ローラン・プティを見逃してきたのは損だった、というのが今回の結論。

東京バレエ団はBプロでキューバ振付家の作品を取り上げていた。アフロ・キューバン・リズムの躍動感溢れるリズムにあわせて、黒人文化のルーツを思わせる儀礼的な仮面と扮装をしたダンサーが登場したりする。バレエダンサーがサルサっぽく踊ったりもする。ちょっとためのあるリズムを出そうと奮闘している様子ではあったが、今ひとつリズムに乗り切れていない印象。新世紀の東京で日本人が黒人文化を舞台化することには全く説得力を感じなかった。

19世紀のロシアバレエにおいても、スペインを舞台にしてみたり、インドを舞台にしてみたり、民族舞踊を取り入れたりと、エキゾティズムが作品に趣向を添えるということはあったわけで、この作品もその意味では古典バレエの枠を延長した所にすんなり収まってしまうだろう。


東京バレエ団は、ベジャールの作品の上演権を持っていて、それを世界に誇っているということだが、僕はとりわけ群舞におけるベジャール的な身体のあり方があまり好きではない。どこかぎっしりと肉が詰まって重量感に溢れ、汗にまみれた身体といった印象なのだ。この作品でもそんな感じがして好きになれなかった。

Aプロではロシアバレエ団出身でパリオペラ座バレエの中興の祖だというリファールの「白の組曲」を上演。いかにもオーソドックスな作品を手堅くまとめたという風。遅れて後半しか見られなかったが、こちらは爽やかなものでバレエの魅力を再認識する。

スターダンサーズ・バレエ団は、僕にとっては一番馴染みがある。ドイツの近代ダンスを発展させた振付家、クルト・ヨースのダンス史に名高い作品「緑のテーブル」の上演も思い出深い。そんな意欲的なプログラムが多かった。今回もAプロでバランシンが西部劇をモチーフにして振り付けた「ウェスタンシンフォニー」、Bプロでウィリアム・フォーサイスの「ステップテクスト」に取り組んでいた。どちらも難易度の高い演目だろう。

ウェスタンシンフォニー」は、西部の酒場の「はすっぱ」な踊り子とカウボーイが踊るなんて感じのもので、バイオリンはわざとなのか調子っぱずれにカントリー調を奏でたりする。1930年代にアメリカに渡り、幾何学的抽象的なバレエ作品を作ったことで名を馳せたロシア出身の振付家、バランシンは西部劇を愛してやまなかったという。それはそれで面白い話だが、やはりそういう作品を日本人が踊ってもさまにならない気がした。アメリカ人がしてみせそうな、おどけた風な仕草ひとつとっても、なんともしまらない。しかし、そもそもバランシンの振付が実現しようとしているものは、日本人の体格には向かないものなのかもしれない。

80年代以降バレエの形式を徹底して分析し、組み替えていったフォーサイスは、未だにバレエをダンスの未踏の領域へと推し進めている。 スターダンサーズで「ステップテクスト」を見るのもこれで二度目だが、やはり素晴らしい作品だ。テープで流されるバッハのシャコンヌはなんども断ち切られ、バイオリンの残響が金属的な光沢を帯びるかのようだ。その時間の断面は、身体運動が組織する様々な軌跡の質感にも対応するようで、舞台は何度も暗転し、断続的に進行する。鋭角で硬質なこの感覚はフォーサイス独自のものだ。

男三人、女性一人のダンサーが出演していたが、これはトリオの拡張ではないか、と思う。ダンスはソロかデュオか群舞のユニゾンのどれかに結局落ちついてしまいがちなのではないかと最近考えている。三人登場しても、2対1でデュオの拡張に過ぎない場合や、3人のユニゾンで群舞と変わらなくなってしまうことが多いのだ。3つの要素が相互に拮抗しつつ緊密に絡み合うトリオを見てみたいと思っているのだが、「ステップテクスト」の、対立・拮抗するデュオとユニゾンするデュオが絶妙な関係を描くような場面は、僕が求める「トリオ的なもの」を暗示しているようだと思ったりする。

客電がついたまま作品がはじまるというあたり、照明デザインも革新的なのだが、何度も突然舞台が暗転したあとで、作品が継続したままの状態でゆっくりと客電が明るくなってゆく瞬間があり、それは照明による舞台上の立体的な造形が客席にまで延長されているようで、忘れがたい瞬間だった。この喜びは、劇場の空間に身をおかないと味わえないものだ。

フォーサイス率いるフランクフルトバレエ団のダンサーに比べれば、今回の上演ではどこか決まり切らない瞬間がみえたりもして、やはり見劣りしてしまう所が無くはなかったが、フォーサイスの振付の魅力を十分に実現するシャープなダンスだったと思う。

さて、東京シティバレエ団は、Bプロではフォーサイスのあとに中島伸欣振付の「フィジカルノイズ」という作品をぶつけてきた。現代的なバレエ作品だけに、フォーサイスの次に置かれると苦しいものがあった。動きのスピーディーさや即物的な身体の感覚は、フォーサイスの影響なしにはあり得ないだろう。動きの要素を拡張しようとする試みや、舞台効果の実験は精力的に成されてはいても、その構成という面ではむしろ単調であったように思われる。単純な幾何学的構成が並べられているだけのような印象しか残らなかった。しかし、あえて独自の創作にバレエの活路を見出そうとする心意気には敬意を払わずにいられない。淡い光が床に描くパターンが移り変わる照明は独創的だったが、ロック調の音楽の選び方は好きになれなかった。Aプロでは「コッペリア」の第三幕を抜粋で上演。満喫する。

牧阿佐美バレエ団はAプロでは戦後フランスを代表する振付家の一人、ローラン・プティの「シャブリエ・ダンス」を上演した。バランシンの振付がアポロン的で垂直な美しさを指向しているとすれば、プティの振付は、ちょっとかしげて様子をうかがう仕草のような「かわいらしさ」のニュアンスに満ちている。ゆるやかに伸びる曲線をぐっと引き延ばした先で溜めた力を急旋回させ、解き放つかのようなしなやかさのリズム。ダンサーそれぞれの身体は軽やかに弾む質感に統一されていた。プティと日本人の身体はとても相性が良いのではないか、なんて思う。

ローラン・プティの、ぎりぎりのところで甘すぎはしない砂糖菓子のような絶妙な振付について、うまく言葉にできないのはもどかしいが、そのもどかしさの幸福感はローラン・プティの作品を見た思い出そのものの感覚でもあるかのようだ。

そしてBプロではスペイン出身の振付家ナチョ・ドゥアトの作品「カミング・トゥゲザー」を取り上げていたが、これも素晴らしかった。フレデリック・ジェフスキーの曲を使っているのもなかなか興味深かい。ミニマルなパターンが持続しながら、音楽は幾つかの段階ごとに違った様子を見せるのだが、ダンスもそれに対応するように、途切れることなく入れ替わるダンサーによってめまぐるしく引き継がれながら、いくつかの場面に展開してゆく。ただスピーディーというだけではない。ラストシーンでは背景の黒い幕がとてもゆっくりと上がって行き、その背後には劇場の舞台裏が見えてくるのだが、遅さと速さのリズムの混合は得難い感覚を生み出していた。

しかしそれにしても、振付の領域にはまだまだ開拓の余地のある動きのパターンがあるのだと驚かされる。例えば、跳躍して再び床を捉えるまでに足先が描く軌跡をたわませたり折り畳んだりしはじめれば、そこには「空間の急所」を掬い取る可能性が満ちてくるというわけだ。

牧阿佐美バレエ団は、作品を選ぶセンスにおいても、作品をまとめあげる力量においても、ダンサーの身体のあり方においてもゆるぎがなくバランスが取れていて、僕はすっかり魅了されてしまった。

(初出「今日の注釈」/2010年3月15日改稿の上再掲)