バニョレ-ダンス-横浜

2月10日と2月11日に横浜ランドマークホールでバニョレ国際振付賞を獲得した作品が連続上演されたので喜び勇んで見に行った。以下それぞれの作品の感想を書いてみたい。

土曜日の2本、どちらも昨年の受賞作

・ロビン・オーリン 「パパ・私はこの舞台を6回見たけど、なぜこの人たちが傷つけあっているのかまだわからないわ」

南アフリカ出身の白人女性の作品。黒人と白人の混成グループにより上演された。 ダンス作品というよりは、舞台作品と呼ぶべきか。 演劇や舞台をとりまく社会状況や、南アフリカの政治状況への言及を含むもの。 進行中の作品にディレクター役のパフォーマーが登場して指示を出していたり、作品の説明をしたり、そこに他のパフォーマーが乱入して場面が混乱したりする、というある種メタシアター的な作品。 舞台上に置かれたチープな照明機材をパフォーマーが操作したり、色セロファンをかざして照明効果を出したりする場面もあり、舞台の物理的条件への言及も含まれている。
クラシックバレエ評論家と称するパフォーマーがおもちゃのアヒルを取り出してダンスさせ、そのテクニックを誉めたりするなんて風な、ダンスをちゃかした場面が連続するのだが、突き抜けたシニシズムはむしろ肯定的姿勢につながっていて、それが開放的な雰囲気を感じさせた。豊かな政治的経験に裏打ちされているように思われる。
黒人ダンサーが「白鳥の湖」の音楽と衣装を使って、小麦粉みたいなものを体にかけながら歩いてゆく、というシーンは白眉だった。白い粉に縁取られた足跡が残されてゆく。

・発条ト「Living Room - 砂の部屋」

ビデオや、インスタント写真のイメージと、実際の舞台の上演との相関関係を作品内に捏造することによって、ライブ上演のあり方を問う、という点では、非常に洗練されたものであり、この程度のアイデアなら誰でも思いつきそうだ、などと高をくくっていると、ラストシーンで足をすくわれる。
ミニマルな振付も、独自の美学を感じさせるものである。
しかし、「ダンスをすること」と「舞台のあり方を問うこと」は、直接結びつくことではない。その接点に呼び出され、作品に一貫性を与えているのは「日常性」というテーマである。しかしここにコンセプト面での弱みが露呈されていると思う。日常性は、この作品では、ある種の言い訳としてしか機能していないのではないか。背景として描写され、書き割り的に引用されているだけである。その点、執拗に日常を問い返しているニブロールと対極的である。

あるいはむしろ、その日常に対する冷ややかな距離の取り方にこそ、この作品の面目があると言うべきか?海岸や公園の映像が繰り返される画面には「休日」の感覚が満ちていた。しかし、そこに作品の基調を置くと、今度は映像メディアと舞台との関わりというテーマが宙に浮いてしまう。結局、舞台と日常との関わりという問題点は、不徹底なままに残されてしまっているのではないだろうか。

ロビン・オーリンの作品が政治的なプロパガンダを無効にさせる機能を働かせながら、どこまでも政治的経験と密着したものであるのと対照的に、発条トの作品は、日本における政治的経験の無効化を穏やかに反映しながら、「センス」とか「現実感」として、日常的価値観を舞台に無批判に持ち込んでいるのではないだろうか。もちろん、芸術作品が政治的な正しさを持たなければならないなどと言うつもりはないのだけど、僕が不満を感じた理由を説明しようとすると、こうなる。

日曜日の2本

・イ・ヨンキョン 「The Waiting Moon」

韓国の作品96年の受賞作。 保守的な「モダン・ダンス」だ。韓国ではダンスが大学の中に拠点を持っているそうだ。そのためか、韓国のモダンダンスには保守的な傾向が根強いように思われる。家族に献身する女性を描くというテーマの作品。いささか古くさい芸術のイメージには困ってしまうが、それ以外に、さほどの欠陥も見出せない振付とダンスだ。様式的にも、モダン-コンテンポラリーの保守本流といったところ。最近のヨーロッパのダンスでも、だいたいあんな風なのが多いらしい。緩、急、緩、という三部構成で、ゆったりとした仕草のしなやかさと、軽々として機敏な跳躍や旋回は、見ていて心地よかった。

・発条ト「Swingin' steve」 初演。

全体がロックコンサートのパロディとして設計されている。ロックコンサートにありがちな仕草を、仕草として引用することと、リズムと仕草の関係を問うことが作品の基盤となっている。ミュージシャンとダンサーは、同じレベルに立ってステージに登場する。ドラムを中央に、キーボードやターンテーブルの卓が用意され、ダンサー達はボーカリストの様に舞台に登場する。
結局は歌わないのだろう、という期待をはぐらかして歌って見せたり、結局コンサートの形式だけを用いるのだろうという予想を裏切って、「二曲目です」なんてコンサートの常套句を口にしたり。曲順ごとに公演は進む。
途中、演奏行為自体がはぐらかされる場面もあるが、コンサートの枠が壊されることはなく、メンバー紹介と各パフォーマーのソロをフィーチャーして、作品は閉じられる。

ライブであることの条件を問う、という発条トの方向性から考えると、映像と上演との関係を問うことも、音楽のライブというスタイルの成立条件を問い返しつつ引用するということも、全く同一なことだ。方法論にこだわって、メディアにはこだわらない。正しい態度だ。最近の様々なジャンルの若手作家に広く見られる傾向だとおもう。

仕草や言葉の意味や機能をはぐらかすことが、「笑い」に通じるものだということは間違いない。この点で批判的な態度が不徹底だと、単なる下手なお笑いと言われてしまいかねない。作品は舞台が成立する条件に疑いの目を向けるところから始まっている。しかし、まだなにか温存しているものがあるのだ。どこに舞台が成り立つ根拠があるのか、もっと徹底して解剖して欲しいと思う。

ラストのシークエンスでは、タップダンスもどきのリズムに乗って足や手で音を出すダンスが披露された。なんかリズムの切れが悪かったりして様にならないのだけど、そのもどき性を肯定的に評価したい。「芸」に成りきらないところで、若者的な身体のあり方が逆に見えてくるように思えた。

前々から、「発条ト」には「サニーサイドサービス」とか、その辺のロックバンドに通じるものがあるように思っていた。ライブハウス公演という案もあるそうだけど、「ロッキング・オン」方面なんかにどんどん宣伝していってみると良いと思った。

(初出「今日の注釈」/2010年3月15日改稿の上再掲)