メタシアターの未来完了形 メガロシアターの Un systematic Analogy を見る

渋谷のギャラリー LE DECO で開催された300日画廊の主催の舞台芸術連続上演企画「低気圧の定義」の初日(6月19日)を飾ったのが、メガロシアターの作品、 Un systematic Analogy だった。Macintoshの「system 終了」と共に終わりを告げるこの作品は、どこまでも演劇的である点において、擁護するに値するものだ。

○Un systematic
「低気圧の定義」のチラシでは、Unsystematic ではなく、Un systematic と分かち書きされていたことに注意するべきだろうか。ここで、スペースによって、単語がひとつの語であることを示す英語の表記のシステムに対するある種の侵犯が成されている。その侵犯はsystematic という語を浮かび上がらせる。システムという語を用いなければシステムに反抗することはできないという逆説。しかし、Un が否定の接頭辞であり、この場合それ単独では英単語として意味をなさないという英語のシステムが、分かち書きのスペースを無視しうるものにして、非システム的、という意味を生成する。システムはノイズを排除し、有意味な脈絡を作り上げる。この作品が成立するのは、システムと非システムが駆け引きする、このような危うい均衡を利用する事において、である。 (ちなみに、メガロシアター単独のチラシでは「Un/Systematic/Analogy」と書かれていた。単語としての区分がずらされていることは同じだが、今度はイニシャルの強調と行をずらすことによってそれが成されている。)

○Analogy
類比、類推、類似。アリストテレスは比例という意味において用い、中世にはアリストテレス注解におけるある種の誤読により、形而上学の中心問題において重要な役割を果たすに至る言葉。全く同一ではないが、完全に違うというのでもない。同じであって異なるもの。本質的に違う物同士が似通うものであるということ。

○前口上
作品は、スタッフによる開演前の注意と、メガロシアター代表で作、演出をつとめ、自身が出演もしていた今井尋也氏によるタイトルの解説から始まった。システムとアナロジーという言葉の説明が成される。
アナログとデジタルを対比しつつ、作品においてアナロジーという言葉が問題となる理由が説明される。完全に対応が成り立ち、同一性が保たれるデジタルに対し、どこまでも近似しながらそれが指し示そうとするものと同一ではあり得ないアナログ。一般的イメージや通俗的理解に訴えながら啓蒙的にアナロジー、類似について釈義してゆく。アナロジー舞台芸術そのものの在り方を示唆する言葉である事が示される。しかし、同時に、デジタル好みな人にもアナログ好みな人にも気に入ってもらえる作品だと思う、とか陳述される。現実と舞台の類比という観点は説明の文脈の中で例示されたものによって即座にごまかされてしまう。韜晦である。しかし、解説するという文脈が生み出すシステムを既に回避しようとしているかのようだ。
システム。体制と言うこともできる。劇場に足を運ぶ人は、システムからはみ出た人、はみ出たい人が多いのではないかとか言われる。まったくその通りだ。社会システムに逆らうものとしての舞台という観点がさりげなく提示される。観客と舞台に対する自己言及である。しかしそれは作品自体が成立するシステムがどのようなものであるかの認識を提示していることでもある。システムを逃れることはできないでしょう、とも言われた。さらに意味深げな事を言っていた気もするが、忘れてしまった。なにか、舞台の上に、そして皆さん自身の中に、アンシステマティックなアナロジーを感じてみて下さい、とかと言ってもいたようだ。実はこんな前置きはどうでも良い、というかのように。そのような言い方自体が、ある種の紋切り型であることを隠す素振りもなく。

○解釈すべきか、解釈せぬべきか、それが問題だ
タイトルを解説することは、抽象的でとりつきにくいタイトルが、ある種の知識によって解読可能であることを示唆している。その事自体、作品全体が解釈可能なものであることを暗示している。しかしそれと同時に、作品を享受するのに作品が読み解かれる必要は無い、と通知されてもいた。感じればいいのだ、と。だが、単に解釈するだけでも、単に解釈しないだけでも、際限なく同一なものを回帰させるシステムを再生産するだけなのだ。そこにはなにも創造的なものはない。そこで可能なもうひとつの態度は、どこまでも解釈し尽くそうと徹することにおいて解釈に抗することだ。作品の解釈可能性の極限に、感受性の新たな局面を幻視しようと試みること。懐疑的に夢見ること。
劇中では、例えば、前の場面に引き続き、馬の仮面をかぶった男が椅子にだらしなくもたれている傍らで、後から登場した女が一人で演技しているという場面があった。その二人が同じ場面にいるということはとても不可解なのだが、それがのちに了解可能な文脈を与えられる。あんた誰よ、いつからそこに居たのよ、ずっと聞いてたのね。馬のまねなんかして、人間でしょ。なんか言ったらどう。ひょっとして死んでるの。ここで問題なのは、それ以前の不可解な場面が、後に与えられる脈絡によって解釈可能なものに変貌するということだ。
常に解釈を置き換え、はぐらかし、あるいは塗り替えることによってこの作品が提示しようとするのは、むしろ解釈が成立する条件についての問いである。そして、そこには例えば解釈とは危ういものでありどうにでも操作できるものである事を示す意図がある、、と言う事も優等生的な解釈として許容されるだろう。そう言うだけではつまらないが。

○演技
解説が終わると同時に、モノローグが始まり、解説をしていた作者が演じる主人公が逃亡の旅に出たいきさつが語られるかのようだ。しかし、開演前の注意や解説が演技でなかったとどうして言えるのか。作品の終わりには、舞台が終わっても役から抜けきれず、作中の仕草に固定されたまま動かない役者を後目に、他の出演者が観客の拍手を受けるという場面が演じられたというのに。観客も、それが演技であることを十分承知していたことは明白であり、無意識にしろ意識的にしろ、終演後の観客の役割を演じることで陳腐な舞台の仕掛けの共犯者となってさえいたというのに。あるいは、その後繰り返された本当のカーテンコールが、演劇というシステムの再生産ではなかったと、それが演技ではなかったと、誰に言い切ることができるだろうか。
もちろん、演技について問う事自体が、作品のテーマであったと言うこともできるだろう。アニメの声優調から、青年団の舞台にでもありそうな調子のものから、芝居がかったものから、叙情的なものから、様々な演技の様式が混交されていたこと、同一の場面に、演技の調子が突然転調すること、その事自体、演技が成立する条件とはどのようなものなのかを探求しているようでもある。
かなり複雑な構成であるにもかかわらず、セリフが言いよどまれることは少なく、演技の質に不快なところはなく、極めて効果的に機能していた。それが演技であるということだけで、見る気が失せるようなものばかりである演劇の状況を考え合わせれば、演出方針と演者の努力に一定の評価を与えてしかるべきだろう。
しかし、演技について問うことが、人間関係のすべてが結局は演技に支えられているのではないか、という疑念に終わるだけであるなら、少々退屈だ。劇中で、死すべきか、生きるべきか、それが問題だ、と訳されるハムレットのセリフがスクリーンに英文で引用され、それが、信じるべきか否か、と変奏されるとき、退屈な解釈が許容されてしまう不徹底さがある。

○引用
作中使われるTシャツが作者が出演したシャトロジーの引用であるとしたらあまりに安易だろうと思っていたが、実際、多くの自作品の引用から成り立つ作品でもあったらしい。作中さまざまなテクストや音楽が引用されたが、なかでも重要なものはシェイクスピアの「ハムレット」だろう。ハイナー・ミュラーのから「ハムレットマシーン」の引用も、ごく一部分ではあったが、とても目立つものだった。
ミュラーの引用が正当であったとしたなら、それはある種悲観的な歴史認識や、暴力的に世界を否定する調子を援用している限りにおいてだと言えるかもしれない。逆に、ハムレットとオフィーリアを導入するだけの役割しか果たしていないのが素晴らしい、というのが良心的な解釈なのかもしれない。
しかし、最大の引用は、能の舞台形式だろう。今井氏が能の訓練を積んでいるということは、この際どうでもいい。様式が引用されたからには、その根拠は剥奪され、空虚な形式や表面的効果だけが作用させられたと言うことなのだから。正面には松が描かれるかわりに、アップル社製の黒いノート型パソコンからビデオプロジェクターに出力された映像が映写されていた。中央の矩形の演技スペースの外には、舞台での演技に参加しない役者が待機する風であり、コンピュータの操作自体が舞台上の演技スペースの脇で成された。
また、スクリーンにはパソコンの画面のデスクトップ上での操作の様子も上映されていた。つまりMacOSと白いリンゴマークも同時に引用されていたのである。

○引用すること
引用が、サンプリング的文化の状況を示唆する、と言うことはあまりにたやすい。伝統との乖離、虚実の境目のなさ、全てが目録に過ぎない状況、様式の破綻、あるいは多様式化。引用を創作術とすることを可能にした条件を数え上げてみると、それがメタフィクションを可能にした条件に通じるものでもあるように思える。近代小説の原点には「ドンキホーテ」のようなメタフィクション的作品があったのだ。メディアの効力を技術革新に求めるなら、おそらく決定的な曲がり角はとっくに過ぎていたのであり、目先のテクノロジーについて考えるよりは、印刷術、文字、さらには言語そのものについて省察した方が豊かな洞察が得られるのではないかと思われる。
また、共通の教養の地盤が堅固にある場合と、そうでない場合では引用の意味が異なるだろう。下位文化と上位文化という区分がもはや成立せず、教養の価値が社会的に基礎付けられていない今の日本の状況においては、いかにも「高尚」な「西洋文化」の引用が、どのような水準でアクチュアリティーを持ちうるのかという疑問があっても当然だ。引用とは、もはやオタク文化の慰み物ではなかったのか。もちろん、舞台が社会的事象の全てを引き受けなければならないわけではない。しかし、引用による極めて知的な構成自体が、作品の魅力を成していると同時に、それが仮構に過ぎない弱みを露呈していると言うことも許されるだろう。

シェイクスピアの主な作品は自意識についての芝居である。
冒頭の、世界を逃げ回る偽金造りのエピソードの次に登場するカップルは、海外旅行の途中で、飛行機に乗っているらしい。当たり障りのない話をしている。それが、いつしか父親に対する憎しみの話になる。この場面は、突然立ち上がった役者がハイナーミュラーの生硬なテクストを声高く叫んだりして中断されたり、同じセリフが不意に不自然に反復されたりしつつ、まるで何事も無かったかのように継続されるのだが、家族と恋人同士、という配置自体、「ハムレット」を参照している。メガロシアターのこの作品に登場するカップルは、ハムレットとオフィーリアの変奏である。ハムレットの筋書きが、交換可能な構造として捉えられ、変奏されてゆく。
カップルの会話は、少しずつ平行線をたどり、いつしか互いに相手の話を聞かずに、二人そろってそれぞれ自分の話を続ける場面になる。これ自体、現代のディスコミュニケーション的状況を風刺しているようでもある(しかし、繰り返される平行モノローグは見事にタイミング良く話が切れ目をむかえて同時に終止する。そして、互いのモノローグの内容が巧妙に対照を保っている!それは対位法的な美質を十分そなえており、この場面の緻密さだけでも十分鑑賞に値する。重要なのは、安易な読み解きではない)。ミュラーのテクストが朗唱される仕方自体、秘められた内心の声が吐き出されていると取れ無くもない。実際、劇中では、お互いに理解したくても理解できず、しかし、本当の自分を理解してほしい、という状況が繰り返し演じられていたのである。
近代人は、外的世界の実在性に対する感覚をますます失っていて、近代人の本性は自己操作と演技にある。演技される自分と、真の自己は断絶している。だからこそ、シェイクスピアの作品はほとんどがメタ演劇なのだ。スーザン・ソンタグは書評という形式において、そう論じていた(*)。極めてメタ演劇的な性格を帯び、主観的な信念の有効性を問い返すような内容がちりばめられたこの作品が、シェイクスピアを典拠とした劇として構成された背後には、極めて正当な演劇史的認識があると言って良いだろう。
勿論、現代人の孤独だとか、近代的自我だとかに作品のテーマがあるのではなく、それはあくまでひとつのモチーフに過ぎない。近代的自我のシステム、演技が成立するシステムそのものを、同定可能なものとして提示することが作品の趣旨なのでもない。そのような枠組み自体を演技として類比的に暗示すること、というよりも、演技的になぞらえる事が持つ効力を示そうとすることこそが、題名が示唆する作品の趣旨なのだろう。作品自体が題名の示唆する目標をどれだけ実現していたかは別問題だとしても。

(*)スーザン・ソンタグ 『反解釈』(ちくま学芸文庫)所収、「悲劇の死」

○反復
日常的にも、同じ言葉が即座に繰り返されることは良くある。そうそう、同じ言葉が即座に繰り返されることは良くある。強迫的な同語反復が日常的脈絡の再現として解釈されるか、されないか、その瀬戸際を探るかのような冒頭の場面は、認知実験の被験者となったような奇妙な興味深さを覚えさせた。

○おふぇりあ異聞
舞台の傍らに座り、ラジカセをそばに置いた女優によってオフィーリアが狂気の縁で譫言を言うシーンの地のテクストが朗読されたあと、その朗読を録音していたテープが巻き戻され、自分の声を再生するラジカセを首にぶら下げた女優が、気ままな風に踊る場面があった。幾重にも読み込める仕掛けに満ちているが、テクストの魅力を引き出して幻想的な場面に結実させている点で、魅惑的なシーンだった。英国の絵画ラファエル前派の画家にもモチーフを与え、小林秀雄も作品化したオフィーリア幻想の引用。それが、先ほど朗読されたばかりの声の再現によって支えられているということ自体が、ある種の異化効果を発揮し、それがフィクションであることを一方で明示すると同時に、記憶と過去とが、再現度の低いラジカセの音声に触発されて、ノスタルジックな幻想性を高めさえするのである。

○劇中劇あるいはメタシアター
この作品では「ハムレット」の中の劇中劇の場面が、巧妙に使われていた。スタッフの一人がマイクを持ってきて、横一列に、しかしもたれ掛かったりしながらだらしなく並んだ役者達のそれぞれの口元に、セリフが吐かれるたびにマイクを向ける。緊迫した場面が、物々しく、しかしある種平板に、声だけで上演され、参照される。劇中劇は、母親である王妃の不実、不正を告発するために、ハムレットが仕組んだものだ。劇中の王妃と劇中劇における王妃のセリフが、別の役者の組み合わせにおいて、同一平面上に提示される。そもそも劇中劇であった場面が、引用であることがあからさまに示されることで宙吊りにされ、その場面の全体が入れ子的に劇中劇化されている状況である。だが最後に、ハムレットの決定的な告発のセリフだけが、列から一歩踏み出しつつ、客席に向かって訴えかけるような仕方で、俳優によって演じられる。劇中劇の虚構が真実を示唆しているという言葉が、今度は観客に向かって、しかしいかにも芝居じみた仕方で、投げかけられる。入れ子状に二重化された劇中劇の構造が一挙に反転された形だ。ここで、舞台と客席、虚構と現実との関係は多重な仕方で幾重にも反転させられている。
実際、この場面は作品の進行上、大きな転換点を成している。この場面のあと、しばらく役者全員が馬の仮面をかぶって馬とも犬ともつかない動物のような振る舞いを繰り返し続ける混沌とした状況が続くのである。緻密に、さまざまな仕掛けを凝らして積み重ねられた演劇の構造をめぐるそれまでの舞台は、一挙に捨て去られてしまったかのようだ。

○舞台と歴史
カバンを持って去っていく、プロローグの主人公は、劇中、もう一度登場する何物かに追われるような仕方で、舞台上をしばらく逃げ回り、舞台正面にたどり着いてから、客席に向かって「日本人の方いらっしゃいますか?」と助けをもとめる。途方に暮れ、悲鳴に近づく。海外で追いつめられた場面である。それは、世界のなかに位置する日本についての言及であり、日本では巧妙さの痕もなく隠蔽されてしまうナショナリティの問題を喚起する。あるいは、世界史的状況に不可避に巻き込まれるということ。海外旅行する日本人カップルが冒頭のモチーフになっていたことと対照しあっている。ハムレットの変奏として構想されているカップルを軸にした作品の主要面は仮構として複雑で閉じた面を形成し、主観と内面を主題としているが、作家自身が演じる場面はそれに対して直交している。聊か退屈で陳腐な物語りではあるが、主題においては社会情勢や経済システムに直接言及しようとするものであり、むしろ単純な演技において直接「現実」に開かれようとする。冒頭の解説や、終結部での偽カーテンコールの演技へとつながっている。

○名前を想起し続けること、無名性
劇中で、広島と沖縄という地名が参照される。しかしそれは、幻想的な場面を描写するテクストの中においてだ。背景には、穏やかな波が寄せては返す、しかし異惑星のものであるかのような色合いにそめられた海岸の画像が写し出される。そこで、無垢な精霊達が、天に帰るための羽衣を待っている。非常に危険な参照であるとも言えるし、どこまで成功しているのかもわからない。どのような出自のテクストが声に出されたのかも定かではない。しかし、日本の近代史を参照しようとした限りにおいて、あえてミュラー西洋史を参照したテクストを引用した意気込みも評価したい。

○両犠牲
ハムレット」を参照している作品なので、自殺の場面もある。オフィーリアは水色のスケルトンボディのラジカセをぶら下げる紐で首を吊ろうとするような仕草をする。
続く場面でハムレットはオフィーリアに水鉄砲の銃口を向ける。そのシリアスな感じは、水鉄砲が実際は本物の鉄砲を意味しているかのように思わせる。しかしこの演技においてピストルと見えたものが、次の場面では水鉄砲として、オフィーリアを水浸しにして嫌がらせる道具となる。その時には水鉄砲は舞台の上でも事実水鉄砲として機能している。しかしその次にはまた、口にくわえられ、自殺を暗示するシーンに使われる。ここで、水鉄砲は文脈によって解釈されるべき象徴的なものと、事物そのものとの間を往復させられている。舞台の現実と、舞台の幻影が折り重なりあっている。

○舞台の余白
この作品が提示しようとするのは、舞台にあるのは単なる幻だ、という単純な主張でもなく、しかしまた、舞台にあるのは生身の身体と装置だけだ、という安易な主張でもないとすれば、現実なり、その集積としての歴史に対してこの作品が取ろうとしている位置や姿勢も、両義的であると同時に類比的なものとなる。舞台は現実を写しはしない。だが、極めて似通った何かとして作用し、充溢した時間によって現実をずらすための空白となる。そこで言葉が発せられ、あるいは文字が書かれる空白。この作品の目指しているのは、事実を指し示すこと自体の複雑さを例えで示すようなことなのかもしれない。紛れもなくそこに巻き込まれていると同時に、捉える事が極めて困難な場所。

○破壊
冒頭の、カップルが会話するシーンでは、二人はテーブルでワインを飲んでいる。テーブルクロスをかけるところから場面は始まったのだが、なぜかビニールシートがその下にひかれている。どうしてかと思ったら、ワインの残ったワイングラスグラスごとテーブルクロスとビニールシートをもった二人がそれを雑巾のようにねじりあげ、ワイングラスの挟み込まれたそれの両端を両手で持った二人はシーンの最後に机に何度もたたきつけてグラスを壊したのである。それだけで、十分喚起的である。赤は血の色だしね。類似性を基盤に象徴が機能するのか。そのグラスの破片を、幼女の様に泣きながら掻き抱くのはもう一人別の女優だ。破壊が死を連想させる、まぁ見やすい道理だ。
最後には、小道具として劇中にさまざまに活用されたラジカセも破壊された。劇中でラジオ番組を受信していたシーンでは竹下登の死去をめぐるニュースが偶然入ったりしたが、それはどうでもいい話だ。そのへんの効果は、あざとく計算されつつも、たまたま活用されただけなのである。

○夢幻能と鎮魂
能においては、無念の思いにかられてさまよいでた霊が主人公であったりする。自らの思いを語って霊は去って行く。能もまた、鎮魂の形式を舞台にしたものである、と言えるだろうか。

○芸術は韜晦の一形式である。
ここまで読んだ方なら良く分かる通り、この作品は複雑に構成され、様々な仕掛けに満ちた作品であり、色々な仕方で読み解くことができる作品である。つい長々と語ってしまったが、まだ語り落とした点は多いだろう。
もしこの文章が冗漫であるとしたら、それは作品自体の欠陥である。この文章が理屈に走りすぎているとしたら、それも作品自体の欠陥であろう。また、その作品について語ろうとする僕が、幾つかのごまかしをしているとしたら、それもまた、作品自体の性格に由来するものであるだろう。

(初出「今日の注釈」/2010年3月14日再掲)