What Dance is not ? ― 神楽坂ダンシング・オールナイトを見る ―

ダンス批評家として健筆をふるう桜井圭介氏が、セッションハウスでワークショップを開いていたことは前から知っていた。参加してみようかと、ちょっと思ったこともある。結局出なかったわけだけど、なにか今までにない新しい動きを生み出すということは、かなりつらいことだろうな、と思って遠慮することにしたのだった。今回見に行った「神楽坂ダンシング・オールナイト」は、継続的に開かれてきたそのワークショップの発表会という名目で開催されたものだ。
暗転した舞台にファンファーレが鳴り響き、それがポップな曲調に一転すると、舞台では正座して横一列に並んだパフォーマー達が、曲に合わせて茶道で使ううつわや道具を磨いたり、お茶をたてる仕草のパロディのような動きを繰り返している。そんなシーンから始まって、数分に収まる短い作品が42本立て続けに上演された。曲の変化が作品の切れ目を告げるような仕方で場面は転換するのだが、曲が中断されると、ほとんど切れ目無く次の曲が始まるといった風で、矢継ぎ早にそれぞれの作品が披露されていった。途中で拍手できる隙間はほとんど無い。全体がひとつの舞台作品として構成されていたことは、オープニングの処理からも、エンディングの、パフォーマー全員がゴム人形を手に持ってダンスさせるシーンの意図からも、明白である。 初日に見た舞台の印象をもとにして、まずは全体を通して気付いたことを幾つか書き留めてみたい。

それぞれのピースは、作品として完結した性格を持っているというよりはむしろ、断片的なものだったが、ちょうど中間あたりに上演された、たかぎまゆのソロ(-ガラスの指輪-)だけはダンス作品として完結した内容と構成をもったもので、ほとんどのピースがひとつの曲に合わせて上演されたのに対し、たかぎまゆのソロは、ナレーションや多様な楽曲の組み合わせにより、聴覚的にもメリハリの利いた舞台を展開していて、独立した作品として素晴らしいものだった。短いシーンの連続に、かえって落ちついて舞台を見ることができない気ぜわしさを感じていたので、このソロでのじっくり舞台を見る事ができる時間が、逆にほっと一息つかせてくれた。 集中して作品を享受できる時間を開くまとまった作品が、逆説的にも幕間の間奏曲的に機能してしまったわけだ。いずれにせよ、舞台の時間について考える上でこれは極めて示唆的な経験だった。

はじまってしばらくは、桜井氏の意図はどのへんにあるのか、それはどの点において正当なのかと考えたり訝ったりするのに忙しくて舞台を素直に見られなかったが、どこまでがワークショップで獲得されたもので、どこまでが出演者自身が既に身につけていたものなのか、あるいは別の所から見いだしていたものなのか見分けようがないと認めた瞬間から、それぞれの場面を楽しむ事ができた。それぞれのショートピースは、あるいはソロで、あるいはデュオで、あるいはそれ以上の人数の組み合わせで上演されたのだが、ひとつずつまとまった作品として作られていたようだ。桜井氏がどこまで介入したかは分からないが、基本的には演者自身の着想から作品が構成され、場合によっては共同創作されたようだ。ちなみに桜井氏は「監修」とクレジットされている。

それぞれに面白かったり、感動させられたり、あきれたり笑ったり退屈したりしたのだけど、全体の構成においてそれぞれの場面が引き立つというよりは、羅列されることでそれぞれの魅力が埋没してしまっているように感じた。基本的に体の動きの質や面白さに注目して見ていたのだけど、動き自体に新鮮さを感じることはあまりなかった。感興が湧いたのは、むしろ既存のダンスの文脈で評価できそうな動きを目にしたときや、作品構成の発想に興味を覚えたときだった。
ワークショップの焦点がどこにあったのかがあまり見えてこなかったという意味では、少なくとも「発表会」としては失敗だったと言えるだろう。あるいは、レクチャー形式で、質疑応答も含めつつデモンストレーションした方がワークショップの成果を伝えるという面では有意義だったのかもしれない。参加したダンサーやパフォーマーの葛藤や格闘の痕跡は、出来上がった作品からは見えてこなかった。作品化すること自体が、ワークショップの成果をむしろ隠してしまった面もあるのではないかと想像する。

今回の公演のチラシには謳い文句として「これもダンス、あれもダンス、っていうかこれがダンス」と書かれていた。「これがダンスだ」と言葉で言うよりも、むしろ作品そのものにおいて、さまざまな身体運動をダンスとして肯定し、ダンスに見せるのでなければならないのだろう。その意味でも、ピナ・バウシュは偉大だったと改めて思わずにはいられなかったし、ニブロールの凄さを再認識した。いずれにせよ、舞台を作品として創造する事に固有の領域があるにちがいない。たくさんの曲をノンストップミックスするのと同じような仕方で舞台を構成することはできないのではないか、と考えさせられた。舞台には、映像とも音楽とも違う、なにか別の構成原理が要請されるのではないだろうか。
桜井氏は音楽家が本業なのだが、音楽とダンスとの関係についても、改めて考えさせられた。 ほとんどの作品が音楽を使っていたのだが、普通にビートに乗っているように見えるものか、その曲を使う必然性が感じられないものがほとんどだった。その点で、音楽を上手く使っていると思えた作品が逆に印象に残ったのだが、それもリズムや旋律と動きの対応というよりむしろ、音楽の持つ情感に訴えている面が目立ったようだ。全体を通してみると、ジャズからファンクまで含めて、ポップでキャッチーな音楽の洪水といったところで、あまりにポピュラーな曲が頻発するのにいささか食傷気味だった。むしろ数少ない無音の時に身体を注視する喜びを素直に享受できたほどだ。

かつてジョン・ノイマイヤーマーラー交響曲第5番に振り付けた作品を見たときに、それまで気付かなかったその曲の魅力をダンスが引き出しているように感じたことがあった。音楽とダンスの理想的な関係はそのようなものだろう。逆に言えば、音が無くても退屈させないようなダンスが、本当の意味でキャッチーなダンスだと言えるのかもしれない。そのような意味で、今回の発表会では、音楽とダンスの関わりについて驚かされたり、新しい発見があったりということはなかった。
今回の公演では、笑いがもれることが多かった。お笑いのライブにワンシーンとして挿入されてもおかしくない場面も多かった。それぞれの動きを「お笑い」にするのも「ダンス」にするのも舞台を構成している文脈だといえるのではないだろうか。こうして考えてみると、ダンスを語るにしても、それを身体の運動として切り取るだけではなく、演技やパフォーマンス、身体の陶冶や交感、あるいはセノグラフィーなど、多様な文脈との相関において身体を読みとり読み尽くす営みが不可欠だと言えるのではないか。今回の上演がダンス関係者の間で不評だったという噂も聞くのだが、僕が「神楽坂ダンシング・オールナイト!」を楽しめたのは、むしろダンスという文脈だけに収まりきらない様々な点においてだったのかもしれない。言葉が常に純粋に詩語ではあり得ないように、ダンスも常に純粋にダンスではあり得ないと言えるとしたら、むしろ舞台芸術一般、身体表現一般を捉える観点を、更になお身につけなければならない。そう思う。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)