齟齬と違和の二重奏 -ニブロールの作品「森くん家に行く?」を見る-

5月12日にAsahiスクエアAで開催された「アートノヴァVol.1」は、3組のアーティストが参加し、パフォーマンスやトークを楽しむことができるイベントだったのだが、その機会に新進舞台芸術グループ、ニブロールの作品「森くん家に行く?」を見ることができた。男女二人のパフォーマーによるダンスと、映像、引用やコラージュによって作られた音響によって構成された作品である。すでに数回上演されたものだということ。
97年から活動しているニブロールは昨年「林ん家に行こう」という作品を発表している。「森くん家に行く?」は10数分にまとめられた小品だが、タイトルは「林ん家に行こう」と極めて似通っていて、同一作品と勘違いされてもおかしくない。見通しの良い林から、錯綜とした森へ、というような展開があったのかも知れないが、「林くん家」を見ていない私にはなんとも言えない。けれども、二つのタイトルの間の微妙な違いは、見た目の類似よりも大きなものかもしれない。「林ん家に行こう」が、すでに共有されることが保証された意志を朗らかに確かめるようなものであるのに対して、「森くん家に行く?」は、問いかけのまま終わっている。第三者である森くんと、問いかける者、そして呼びかけられる相手。問いかけが宙吊りにされるような三者間の関係を含んだこのタイトルは、作品の主題を説明し、指示し、暗示すると言うよりも、それ自体がひとつの動機となっていて、そこで既に作品が動き始めているようなものだ。
この作品は、今回、客席に正方形に張り出したステージで上演されたが、それ自体として立方体的な空間に構築されている。構成の幾何学的な緻密さは厳格なもので、ある種の対位法的な秩序を織りなしている。
パフォーマー二人が舞台奥の左右に立つと、演歌調の曲で作品はスタートする。そう古くはないが生活感溢れる日本家屋の一室を正面から写した一見陳腐で平面的な構図に、普段着のじいさんがだらしなくつったっている映像がしばらく流される。その間、パフォーマーは直立したままである。やがて女性パフォーマーが断ち切るように腕を振り上げると、映像と音楽は中断し、二人のパフォーマーは歩み寄って挨拶のような誇張された仕草をし、それからしばらくパフォーマンスが展開される。その後、映像から舞台へのこのシークエンスがもう一度繰り返されるが、2度目は演歌にあわせてじいさんが観光地で売っていそうな提灯を両手に持って、焦点を結ばない笑顔をカメラに振りまきつつ、演歌にあわせるように揺さぶっている。ためらいがちな笑いが客席から漏れた。
このとき、どこか笑いたくなる間抜けな情景がスクリーンでは展開されているが、その直前に舞台の上で展開されたシーンは決して笑えるようなものではなく、上映中パフォーマーは舞台を中断するように直立したままで、ある種の緊迫感さえ醸し出し、笑うことがためらわれる。日常の場に無造作にカメラが侵入し、じいさんはカメラの前での「パフォーマンス」をいきなり強要されさえしたかもしれない事を考えれば、映像自体が未知の何かと関係を結ばされることをめぐる躊躇やおちつかなさそのものを写し出しているとも言える。映像と舞台上のパフォーマンスの関係も、いわば反発しあい、背きあっているようなものだ。宙吊りにされた笑いそのものが、解消されない関係を身体に沈殿させる。
この導入部のシークエンスで二度の上映にはさまれた場面では、「歯ブラシは大切、とっても大事」といったセリフのあと男性パフォーマーが実際に歯ブラシを取り出し、舞台の片隅につったって歯を磨きはじめる。女性パフォーマーはしばらく円を描くように舞台の中心を歩きながらこのセリフを無造作に繰り返し、やがて相手の歯ブラシを奪って舞台後方に投げつける。男は別の歯ブラシを取り上げ、女はまたそれを奪おうとする。そういった全てがダンスであり「振り付け」られているものだと捉えるべきであるようだ。ちなみに、ニブロールの最近のチラシでは、「これまでの演劇やダンスの既成概念を越え、新しいダンスを開拓してみせる」と宣言されている。
二人のパフォーマーの関係は、どこか平行したままで、あまり触れ合うことなくそれぞれの行為が成される。倒れる相手を支えるような場面も繰り返されたが、そこに信頼関係が結ばれているような印象はない。むしろ互いを道具として扱うような手つきでさえある。戦乱の過酷な状況に言及する古めかしいニュース音声の一節が引用され、繰り返されもする。男が何度もマッチを擦りながら、火を付ける事ができず、客席に背を向けて「つかない、つかない」と繰り返し、つぶやきが叫びにエスカレートするような場面もあった。そして「火のないところにも煙は立つものよ」という初期RCサクセションの歌が引用される。いわれの無い噂を立てられ、誤解されることをシニカルに受け入れるような諦念の歌だ。舞台は、ある種絶望的な状況に満ちている。無視するわけにもいかないが、理解し合えるわけでもない、そんな関係性が、身体運動や音声の構成によって展開されていく。一見とりとめもない場面の連鎖のようにも見えるが、作品の主題は、そのような一貫性を持っている。
だが、ダンス作品として考えた場合、身体運動や振る舞いの質感は、むしろ無調であるとさえ言える。たとえば、横たわった男の傍らで女が縄跳びのような仕草を繰り返す場面がある。縄跳びの縄は用いられないので、縄跳びの振りをしていることになる。懸命に縄跳びをしている振りをしていると言うべきか、縄跳びの振りを懸命にしていると言うべきなのか、その両犠牲のうちにともかく空回りする必死さの印象がある。演技としての洗練さも、ダンスとして彫卓された動きもそこには見出せない。モチーフとなっているのが日常の仕草であるのは明白だが、上演されるのは実際には縄を飛び越すことができないような運動であり、それは日常の中に見出せるような動きではない。それはまた演技ですらなく、ただの必死な動きなのである。音程の正確さや音程の間に成立するハーモニーを求めるような仕方で、身体運動の質を理想化していく基準自体が見出せない。そこには動きの調性のようなものはない。だから、さまざまな動きが、一見して無造作で、コントロールされていないもののように見える。観客は、何かの基準によって動きを評価することを享受できない状況におかれるかのようだ。何か特定の基準を当てはめようとすれば、不満を抱く他ないとでも言うように。いわば、むき出しの動きそのものを見なければならない。どこか、身体の受け入れがたさそのものが露呈させられるような、特定の質感に収まることを拒む仕方で様々な動きが現れる瞬間に立ち会わされたような感触が残った。このような言い方は、諸々の身体と親和すること、ないし、親和的な諸身体の運動をダンスと考えるなら逆説的なものでしかないわけだが、齟齬しあう身体のダンスがこの作品の本質であるなら、偶発的にか、自発的にか、そこに一つの評価基準におさまらない諸々の動きがあらわれていたとしてもおかしくはない。
もちろん、どのような動きもそれぞれ素晴らしい、と言いことはあまりに容易だ。だが、どのような言葉も詩である、という言葉に真実味を宿らせるのは、特定の趣味を越えて度外れて洗練された詩人の見地だったりもするのだ。特定の様式に安住することを拒む方法論が、厳格な構成への志向と共存しているところに、ニブロールの特異な位置があるといえるかもしれない。
今回の「森くん家に行く?」は「シャトロジー」にも出演していた今井尋也と井上バレエ団の鶴見未穂子によって上演された。今井氏は幼ない時から能の訓練を受けたパフォーマーであり、鶴見氏は優れたバレエの指導者でもある。この作品は、この二人の身体の食い違いをもとに振り付けられた作品であるということだ。舞台を見ただけではまさか能とバレエが二人の動きのベースにあるとは思えないだろうが、見え透いた安易なコラボレーションに終わらせないところにも、ダンスの探求に向けた厳しい徹底さがある。ケレン味というものがこれほど無い舞台も珍しいのではないかと思う。
それに留まらず、この作品の上演は振り付け作品として自律したものであり、他のダンサーによって上演されることも許容するようだ。いずれにせよ、この作品がダンスの作品としての在り方について、様々に考えるべき興味深い問題を振りまいていることは間違いない。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)