翻訳劇の課題 -巻上公一演出による「エジプトロジー」の上演を見る-

特異なバンド、ヒカシュー巻上公一氏がニューヨーク・アングラ演劇の雄リチャード・フォアマンの作品「エジプトロジー」を上演するというので見に行った。フォアマンは、長年オントロジカル・ヒステリック・シアターと言う劇団を率いてきたのだという。
フォアマンの作品については、かつて「絶対演劇」を標榜していた「前衛」演劇の一派が開いたシンポジウムで話を聞いたことがある気がする。演出家が客席に陣取っていて、いきなりブザーを鳴らしたり、舞台についてコメントしたりするのだそうだ。舞台の上では、なにかの場面が演じられている途中でそれが中断し、急に全員が背中を掻きながら歩き回ったりと、なんだか一見支離滅裂な光景が繰り広げられるのだとか。
今回の巻上氏による演出も、基本的にはフォアマンのスタイルを踏襲したものだったのだろう。巻上氏自身、フォアマンによる上演をニューヨークで繰り返し見ているのだそうだ。使われたテクストはフォアマンのものを鴻英良氏が翻訳したものだったが、配られたパンフレットによると、もとのテクストは人物の指定も卜書きもなく、ほしいままに記された詩行のようであり、戯曲の体を成していないものだという。リチャード・フォアマン自身による上演があったのか無かったのか知らないが、テクストを舞台に立ち上げて行く作業は、巻上氏を中心とした独自の演出の仕事であったわけだ。
それなりに楽しい一時を提供してくれる舞台だったが、あまり新鮮味を感じなかったのは何故だろう。唐突な場面転換や、ナンセンスなシーンの連続は、80年代に興隆した、いわゆる小劇場演劇でも繰り返されたことだろう。俳優達の演技はある程度しっかりとしていたけれど、基本的にいかにも芝居じみた印象を与えるおなじみの様式性を無批判に再生産するようなものに思えた。それが、舞台空間全体にどこかで見たような印象を与えていた。
突然のストロボやベルの音、そして「こんな舞台は嫌いだ」といった「作者の声」の様にマイクを介して流される演出家の声は、舞台上に流れる場面の時間の同質性を断ち切る意図があるものだったのだろうが、フォアマンを真似ているという意識がどうしても先立ってしまう。結果、舞台に向けられた視線を中断することで何事かを際だたせるようには機能していなかったように感じた。このように表面上織りまぜられるノイズにも関わらず、舞台全体としては、ピラミッド状のレリーフが照明に浮かび上がるオープニングから、活人画のようにポーズを取った役者たちが配置された構図が溶暗していくラストまで、むしろ画面を構成するように作品をまとめあげ、統一しようとする指向が基調になっているように感じた。生み出されたのは、常識的に統合された単なる意識のドラマである。音響や照明の堅固な構築も含めて、今回の上演における見事な構成力は、それが成功であった度合いに比例して、フォアマンの作品の翻訳テクストによる上演としては失敗だったのではないか。見た目の突飛さにも関わらず、舞台の根底にある美意識は東京の近年の演劇を支えているものからそれほどかけ離れてはいないだろう。
ここで露呈していたのは、おそらく翻訳劇の困難さそのものだ。ベンヤミンが文学作品の翻訳について、その理想を記しながら引用する言葉に従えば、翻訳者の課題とは「自身の言語を他言語によって力ずくで運動させること」だ*1。いわば、こなれた意訳よりはぎくしゃくした直訳が称揚される。舞台に話を移せば、身体表現の慣習的なスタイルが残されているかぎり、テクストの異質性は、既存の演技様式になじまされることで消え去ってしまい、上演すること自体が「翻訳」を埋没させることになってしまう。あえて「翻訳」された言葉を用いた意味が無くなってしまう。あるいは、どこかにある本物に対する欲求を喚起してしまう。
今回の上演は、フォアマンの紹介として良心的である分だけ、フォアマン作品にかぎらず芸術的創造が切り開こうとするものを、あるいは自由が極まった空間を裂開するという舞台作品の身果てぬ夢を、なにか穏当なスペクタクルにしてしまっていた。
しかし僕は今回の上演に立ち会って、逆にフォアマンの舞台を見てみたくなった。今年の11月にはフォアマンの来日公演が予定されているという。その意味では、フォアマンの紹介者として精力的に活動を展開してきたはずの巻上氏は、舞台を介して十分に適切な紹介を行ったのであり、紹介者にふさわしい慎ましさを堅持しえた事にむしろ敬意を抱くべきなのかもしれない。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)

*1:ベンヤミン『暴力批判論』(岩波文庫)p89