ダンスワークショップ体験記

2000年の4月10日から13日まで、東京は神楽坂のダンス・スタジオ、セッションハウスで開催されたジャン・サスポータス氏のダンス・ワークショップに参加した。その経験を記録したい。その前に、いままでのワークショップ経験を振り返っておきたい。

1.きっかけ

Workshopという単語は本来「工房」という意味だけど、米語としては研究会という意味がある。いわば、ダンスや演劇のワークショップというのは、実体験型の公開講座といった意味をもっている。

僕がはじめてダンスのワークショップに参加したのは、95年のこと。大学を卒業する前の春休みに、岩下徹さんのワークショップに参加したのが最初だった。学生演劇や舞台芸術に関わっていた知人に「素人が参加しても面白い」と薦められて参加したのだ。

岩下さんは舞踏のグループ「山海塾」のメンバーで、ソロの公演も行っている。そして、岩下さんのワークショップでは、身体を通じて自己を見つめ、身体を解放する方法を探る、というのがテーマになっている。岩下さんはソロでは完全な即興で踊る。参加者はその即興の基礎にある姿勢や、即興の方法が見いだされた過程を、いわば追体験するのだ。

具体的には、とてもゆっくりと歩くとか、とてもゆっくりと立つとか、体の力を抜いて、相手に体を揺さぶってもらって体の中をふるえがどのように伝わるのかを感じるとか、そんなことを繰り返す。そんななかで、体が自ずと動き出す感覚を見いだして行く。ダンスの根本にある動きの素みたいなものを見つける試みだった。

それからしばらくは、広い空間に身を置くと、踊りだしたくなる様な感覚があって、実際空港のロビーで体を軽く動かしてたら笑われたなんて事もあった。そんなわけで、98年の2月ごろダンス公演を見に行ったとき「初心者歓迎」と書いてある「セッションハウス」でのワークショップのチラシを見つけて、俄然ダンス欲に火がついてしまった。そして、この年の3月末から7月まで、ほぼ毎週、神楽坂でのワークショップに通うことになったのだった。

2.セッションハウス

セッションハウスでのワークショップは、二つのコースを受けた。ひとつは、ひとつはイギリスのカンパニーで踊っていたこともあるという山田珠美さんのクラスで、これは、欧米のモダン/コンテンポラリーな系統の基礎トレーニングを丁寧にやっていくものだった。クラスの終わりに毎回、ムーンライダースの曲にあわせて踊るのが、ちょっとおしゃれで楽しくて、でもその振りでターンするところで、いつも振りを終えなくて、その歌詞に合ったちょっと軽快な振付を覚えられないのがいつも心残りだった。
もうひとつは、コンドルズの近藤良平さんのクラスで、そのころはコンドルズが売れ始めたくらいのころで、後にNHKとかに出てお茶の間レベルで知られるようになるとは予想もできないころ。でも、学生とかには人気で、お茶大の学生さんたちが大挙してクラスに押しかけてた。
なんかこう、テクニックとか関係なくて、遊びの延長みたいな感じで、空間にいろんなイメージで落書きしてみようという風な楽しい時間だった。

3. 身体の分節化

99年の夏にはイスラエルのダンスカンパニー「ヴェルティゴ」のワークショップに3日間参加した。 そのときも、初心者でも参加できるというベーシッククラスに参加。今回のヴェルティゴのワークショップでも、山田珠美さんのクラスの基礎的な動きの振り付けやダンスの考え方とかその人と同じものがあるな、と思ったら、ヴェルティゴ・カンパニーの人もイギリスに留学していたとか。ある種の系譜があるのだろう。

例えば、ダンスに入る前の準備段階のストレッチで、背骨を一本の棒とイメージして動くことや、背骨の骨がバラバラになっていて、粘液でつながっているイメージで動くという感じを見いだすことが要求される。また、腕の重みや頭の重みを感じることを要求される。だいたい、普段の生活で歩いたり、ものを取ったりするときには、体がどう動いているかなんて意識していない。ダンスを始める前に、体の動きのそれぞれに意識が集中できるような体勢を身につけないといけない。

結局、ダンスの基礎トレーニングというのは、身体をいかに分節するか(Articulation)という問題なのだと思った。関節と関節の分けられ方(分節)と、分けられているからこそ関わっているのだ(関節)ということ。それを明瞭に意識して、体をはっきり動かせる様にすること(Articulate:はっきりとした発音、言葉の明瞭さ)。

そして、身体の分節というとき、筋肉や筋がどうつながっていて、どの方向にどう動くのか、ということや、重心や重さがどう移動するか、という事を意識するという面が一方にあり、また、そういった分析された身体を統合するようなイメージ、力がどのように流れるのかを把握するイメージによって身体をとらえるという面もあると思う。
これは、言語が識別されるときに、音を区別する分節(音韻)と意味を区別する分節とが平行しているようなものかも知れない。

だいたい準備体操的なストレッチの中に、振り付けにつながっていく要素が組み込まれていて、簡単な振り付け作品を踊るときにその感覚を生かしなさい、という事だったのだけど、やっぱり流れのある振りをおぼえて踊るとなると、動きを辿るので必死になってしまって、動きのニュアンスなんて構っていられなくなってしまう。
たぶん、言葉をおぼえ始めた子供のような状況にいるということなのだろう。流暢さというのは、分節をしっかりと身体化した先にある。そしてきっとその先に、単なる流暢さでは収まらない次元を開かなければいけないのだろう。

ベーシッククラスは一日3時間で、前半はこんなストレッチと振り付けのレッスンだった。後半はコンタクト・インプロビゼーションのレッスンだった。

4.身体運動の公理系

サスポータス氏は、ピナ・バウシュのカンパニーで踊ってきた人で、今回も韓国公演に会わせて来日したということ。チラシによると、ワークショップではアルビン・ニコライのテクニックをベースにした方法で動きの分析をする、ということだった。最初に「ピナ・バウシュのテクニックのことは忘れてくれ」と言われる。

僕が参加したのは初心者向けのコースで、実質的に行ったのは簡単な手足の動きを様々なバリエーションで組み合わせて動かすことだけ。そこから発展する、ごく簡単な振りのダンスも、少しだけあった。しかしそれは、基礎がどのように活用されていくのかを少し確かめるような作業だ。

サスポータス氏は大野一雄の教えも受けていたり、太極拳を習っていたりもするようで、簡単な動きとあわせて、呼吸法や「気(energyと言っていた)」を感じることなども指導された。床から天にむけてエネルギーの流れを感じること、常に床から動き始めることが繰り返し注意される。手を伸ばすときにも、手が彼方までのびてゆくことをイメージすること、手を旋回させるときも、壁を撫でるようなイメージを持つことが要求される。
「気」と言われるとき、中にはそれを実体化して本当に気の流れがあるように考えて、時にはある種の神秘主義にはまりこんで行く人も実際居るわけだが、サスポータス氏は、大事なのは動く時に感じる感覚だ、と注意していた。

例えば、腕をあげる時に動かされる筋肉は、主に背中にある筋肉だろう。また、指を動かすとき、動いている指とは別の所にある筋肉が指を動かしている。案外、一生こんな単純なことにも気付かないままの人が多いかも知れない。腕の中にある、腱で指と結ばれた筋肉を動かすことで、我々は指を動かしている。左手で下の腕をつかみながら、手を開いたり閉じたりすれば、そのことが良くわかるだろう。
しかし、指を動かすときには、指を動かそうと意図しているのであって、指と対応した筋肉を動かそうと意図してはいない。ここでは、いわば指の動きのイメージと、指の動く感覚とが結びついていて、この結びつきがあるから、我々は指を動かす事ができる。逆に、親指を動かす筋肉を直接動かそうとしても、無理なのだ。
日常的な動きは、手足の動きのイメージと、実際の筋肉の運動、そして動きから帰ってくる内的感覚や、触覚、視覚の反応とが結びついた一つの体系をなしている。

ダンスを学ぶことは、日常とは別の動きの体系を身につける事でもあるだろう。動きによって引き起こされる、知覚や内的感覚の変化を、身体を動かそうとするイメージと結びつけることによって初めて、身体運動の体系を自分のものにする事ができる。そして、生まれたばかりの赤ん坊が歩き始めるまでのあいだに学んでいることを、ダンスにおいて別の仕方で学び直す時、様々なイメージを活用することが効果的なのだ。
優れたダンサーは、自分固有の動きのイメージを持っているに違いない。即興的にダンスするとき、手が自ら動いているように感じることがあるけれど、これは動きのイメージとフィードバックされる感覚の間に一つの調和が、一つの回路が形成されていると言うことなのだろう。
例えば、足の指を動かすような些細な運動でも、座っているか、寝ころんでいるか、また足の姿勢がどうなっているかに応じて、様々な感覚を引き起こす。同じ動きを多様なバリエーションで繰り返して行くうちに、どれほど感覚が変化するものかに驚かされる。また、サスポータス氏が伝えようとしているイメージ、感覚がどんなものかに次第に気付かされてゆく。何かをつかみかけたところで、4日間のレッスンは終了。ワークショップはさらに発展させたシリーズもあったのだけど、君には難しいだろう、と言われてしまった。残念。

ごく単純な公理から、複雑な幾何学の体系が導かれるような仕方で、華麗で複雑なダンスの動きも、幾つかの基本的な原則に支えられていると言えるだろう。そして、公理は任意のもので良い、というわけだ。日常の動きの体系も、任意の動きの体系の一つにすぎない。

(初出「plank blank」/2010年3月12日再掲)