ニブロールの公演「東京第一市営プール」をみる

舞台芸術を見るとき、スポーツを観戦するように見るべきだ、と言われることがある。スポーツにおいては、有効なポイントを得るための 的確さが全ての身体運動に要求される。的確さの基準は、定められたルールのなかで、おおよその場合誰の目にも明らかだ。選手の一挙手一投足に即座に歓声があがり、ため息が漏れる。舞台芸術においては、あらかじめルールがあるわけではない。しかし、それは舞台においてはスポーツ以上に的確さが要求されるということでもある。

4月7日金曜日、ニブロールという新進グループの公演「東京第一市営プール」を見る機会があった。僕が見たのはこの作品の2度目の公演だ。今回のニブロールの作品は、その的確さが見事に一貫している点において、昨今の日本のダンスカンパニーの水準を軽々と越えてしまっている。開演とともに女性が薄暗い舞台上に歩いてきて、横たわる。導入として、楽屋でシャワーを浴びているパフォーマーに携帯電話で宝くじが当たったという知らせが届き、裸のままロビーに、そして外に出て欣喜雀躍するコミカルな演技がビデオ中継で上映されたあと、舞台に明かりがともる。足を閉じて膝をたてた女性に男が近寄り、かがみ込み、足を開けようとする。すると女性から「2度目の出産です」と多少芝居がかりうわずった、緊張した声が発せられる。全く不意をつかれる。男性パフォーマーもその言葉を繰り返す。立ち上がり、とりつかれたように膝を叩き続ける女性、舞台の反対側で、ダンスの糸口を探るようにわずかな振りをなぞる男、あるいは役割が入れ替わり、あるいは二人が家庭ないし男女の間の暴力を連想させるようにぶつかりあう。全く唐突である。一体何が始まるのかわからない。しかし、舞台が進行するにつれて、この導入がいかに適切なものであったか了解されてゆくことになる。
ある雑誌の記事で、「男女の関わりを連想させるようなダンスは見たくない」といった発言をしている人がいた。身体表現において、身体自体が常にすでに持ってしまっている意味あいをどのように処理するべきかという問題は、いつまでも舞台につきまとうものだろう。身体の意味作用を隠蔽する欺瞞から、意味を消し去ろうとする努力まで、さまざまな立場がありうる。さて、喜びのあまり裸で市街地に飛び出してしまうこと、性行為ないし性暴力の端緒を連想させる所作に「出産」という身体的営みの極みを対置すること、作品の冒頭にこのような場面を置いた意図は明白である。ニブロールの戦略は身体の意味作用をさまざまに活用することに他ならない。意味を発散するものとして身体を活用することにおいて、身体を日常的意味のしがらみから解放すること。そこに舞台作品が観客を巻き込んで機能する。

いきなり発せられる「出産」という言葉が2度目と言われていることは、全くさりげないが恐ろしいほど的確である。2度目の出産、の一言において、男女のパフォーマーの関わりに思わせぶりなところを期待してしまう視線が観客から奪われる。しかも、2度目である。それは繰り返されることであり、劇的な唯一のものであるにも関わらず、既に知られたなじみのものとして扱われてしまいかねないもの。これが、舞台で発せられる最初の言葉である。常に繰り返されるありきたりな出産の、それぞれのかけがえのなさ。それは舞台が生み出されることそのもののあり方にぴったりと重なる。思わせぶりな隠喩ではなく、まぎれもない直喩としての舞台、舞台としての直喩である。比喩として、決してそのものになりきることなく、しかし異なるものとして寄り添うこと。あるいは切迫すること。
「東京第一市営プール」という、些末なようでいて、ダンス公演のタイトルとしては唐突なこの言葉は、「決して溺れることのない安全な場所、コンクリートに囲われた海」を意味し、いまの若い世代が置かれている状況をたとえているという。パンフレットでは「ぬるま湯に浸かりながらアクセク泳ぎまわっている姿を受け入れ、ポジティブに表現する」ことを目指したと語られていた。携帯電話を受けるパフォーマーの姿がビデオカメラで撮影され、同時中継された導入シーンのビデオ上映もまた、このテーマを巧みに展開している。すぐそばで現になされていることを、スクリーンでしか見られない、そしてスクリーンで見せつけられる状況に観客は置かれている。しかし、単にマスメディアの状況を示唆するだけではない。音響の調整卓がスクリーンに写ったあと、生中継画像にロックミュージックがかぶせられる。そこにはメタフィクション的要素やライブパフォーマンスと映画音楽的手法の交差など、表現手法についての的確な反省が伴っている。

冒頭のシーンのあと、二人のパフォーマーは舞台の前面両端の椅子に腰掛け、暗転した舞台ではビデオ作品が上映された。スクリーンには、まず「およげたい焼きくん」のアニメキャラクターが引用される。たい焼きくんが泳いでいる姿が古くさいゲームのキャラクターのように黒い画面にぽつんと表示される。その背景に、街頭に立つ若者の姿がマルチスクリーン的に表示されてゆく。コンピュータを使って画像を処理、編集している。たい焼きくんが画面の下に沈み、背中を下にひっくり返ってしまう。それでも手だけは規則的に水を掻いている。すると、画面の上から一匹、また一匹とたい焼きくんが沈んでいき、やがて降り注ぐように大量のたい焼きくんが画面の底に沈んでいく。全てのたい焼きくんが手だけはゆっくり回転させている。その間、パフォーマーは放心したような緩やかなパフォーマンスを継続している。ぼんやりと当てられた照明の処理も的確である。エスカレートするビデオがフラッシュして暗転。次の場面に移った。
他にもいくつかのビデオ作品がダンスにあわせて上映された。例えば、コンビニの暗視カメラのモノクロの画像に、カーソルを動かして球を打ち合う旧式のビデオゲームの画像が重ね合わされるというものなど。その画像をバックに、暗い舞台でスピーディーなダンスが展開される。饒舌にならず、過不足なく主題を展開する映像は、ダンスと響きあっている。映像とダンスを組み合わせる試みはいまやありきたりの手法だが、ここまで見事に映像を活用したダンス作品は多くはないだろう。
音楽はテクノ調のものからパンクロックまで、さまざまなものが使われていたが、音のつなげ方も見事で、完全に舞台と同期していた。歌詞のある曲に振り付けたダンスもまた素晴らしかった。うたの意味や抑揚を拾い上げ、互いに生かしあうような見事な振り付けだ。舞台自体が、純粋音楽というよりは歌に近いものであるとも言える。歌、といっても、ロック以降の世界性を引き受けた上で、自分たちが好きなものを舞台になんの気取りもなくぶつけ、そして作品として見事に成立させているのである。
冒頭の鮮烈な言葉の他にも、演技的なものやセリフ的なものが作品の端々に織り込まれていた。中でも印象的なのは、煙草の吸いすぎで死んだ祖母について語るある演者のセリフだった。それは完全に演技として成立していたのだが、逸話として死を語る言葉を舞台にのせたことも絶妙なバランス感覚を発揮している。死を連想させる身振りが極めて容易であるにも関わらず、死を直接舞台で扱う事はできない(性行為との奇妙な反転関係)。そうした条件の下で、死をも射程に収めようとする野心が実現されていた。このセリフ以外にも死を扱った場面はあったのだが、ほのめかしに終わることなく、直接扱えない事において、あくまでフィクションとして捉えながら死を主題化することに成功している。

大抵のダンス公演では、ゆっくりとした動きの繊細さに魅了されたあと、はやいパッセージに落胆する事が多い。ただ速いだけで、いわば単なる遅さの欠如であることが多い。今回の公演では、作品の終盤にダンサーが思う存分踊る速い振りのダンスが置かれていたが、それは、説得力に満ちたものだった。動きが速くなければならない理由が、動きの一つ一つに現れている。そしてまた、構文レベルではなく、音韻レベルで、新しい言葉を生み出すような仕方で、さまざまな振りをダンスに構成することに成功している。奇抜さをひけらかすようなことは何一つしていない。それにも関わらず、どこかで見たことがあるような印象の動きはない。借り物の動きは一つもなかった。空間構成も、緩急の要を得た展開の仕方も、新鮮だ。作中の衣装には既製のものもあると思いこんでいたが、すべてオリジナルだったということにも驚かされた。
作中、バイオリン演奏の場面があり、それは、はじめノイズっぽく、途中弓がX字形に振り回され、続く演奏は次第にメロディを浮かび上がらせる、という卓抜なものだった。このシーンは、弓を振り回す手の運動と、空気の物質的抵抗との出会いが、そのままダンスというものの在り方を指し示すものであるとも考えられる。単なる思いつきとは違う。このようなすばらしい着想は、まぎれもなくダンスについての認識が徹底されているからこそ可能なのだろう。
舞台で展開されるそれぞれの場面があまりに明白なので、解釈の必要は一切なかった。豊饒なる、汲み尽くせない単純さ。これは、紛れもない創造がなされている証だ。構成力の見事さと、絶妙なバランス感覚は、国際レベルでみてもトップクラスではないかと思われる。あまりの素晴らしさに、胸が苦しくなるほどで、これ以上見せられてはたまらない、というところできっちりと終演した。ひょっとすると、予想外のところに高い水準の作品を見せられたが故の錯覚に陥ってしまったのだろうか。一目惚れというのは当てにならない事もある。
もちろん、完成度という点では荒削りなところもあった。しかし、そこそこのレベルで完成してしまっている作品には決してないような可能性を、これほど感じたことはない。僕自身、ニブロールがどこまで本物なのか、厳しく検証していきたいと思う。そして、そのように厳しく見つめるに値するグループが登場したこと自体を喜びたい。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)