できることを組み合わせる仕方 −時々自動の公演「R.A.1」をみる−

「時々自動」 というのは主に舞台芸術の作品を発表している集団の名前で、全自動ではないけど時々自動、というような意味のある名前であるらしい。映像や音楽やダンスや演劇を組み合わせた様な舞台を作っているのだけど、面白いのは既存の手法に則るのではなく、音楽なら曲を作るのではなく作曲法から作り上げてしまう。ダンスならダンスの構成原理から作り始めて独自のダンスのスタイルを作ってしまう。パフォーマー全員が楽器を演奏する。ダンスの専門家でもなく、演奏の専門家でもない人が出演している。アマチュアでもできることを組み合わせてどれだけ面白いモノが作れるのかを目指しているようなものだ。地に足つけて遊んでいられる人たち。経済から生活条件からさまざまな事柄を見つめつつテーマを拾い上げ本質を突くアイデアと構成力の勝利。
昨年春の「時々自動」の公演「時々自動的思考」では、時々自動第2期の活動が休止されると宣言されて、これでしばらく時々自動も見られないのか、と残念に思っていたのだけど、今年は第3期に向けて方向性を探るために2カ月に一回のペースでイベントを開催するのだという。思いの外たくさんの作品を見る事ができるのは嬉しい。
この日に見たのは「2000年6events」の第二回目、「R.A.1」という作品で、これは「Rcording Angel」という三部作の一作目だと言うことだ。「時々自動」の活動記録を再構成して舞台作品にする事で、これまでの活動を振り返り、新しい可能性を模索するということを意図している。「記録天使」というのは実際にキリスト教イスラム教において使われる言葉だそうで、人々の振るまいを神に報告する務めを果たしているとのこと。
初期から活動し続けて来たメンバーの日記や、舞台の映像記録などが素材として用いられる。二つのスクリーンにビデオが上映されるのだけど、その背後を人が通れるようになっていて、映像とパフォーマンスが見事に組み合わされていた。舞台構成のアイデアの卓抜さを指摘していたらきりがない。
自分達の活動記録を素材にするというと手前味噌になってしまったり、自画自賛になってしまったりするものだけど、活動年譜が読み上げられたり、記録が朗読されるごとに、絶妙なタイミングで三人のパフォーマーによる拍手やブーイングのような声が組み入れられていた。拍手は頭の上で手を叩き、終わってから手をチューリップのように組み合わせて回転させ、手をほどくと言うような振りが付けられていて、「ブーイング」の方もあたまの上で両手をぐるぐる回してポーズを取る一種様式化された振りを伴っている。そして時にはブーイングと拍手が同時に発せられる。それは、韜晦のようでもあり自己戯画化しているようでもあり、やっぱり自慢してるみたいでもある。そこでは意味がはぐらかされ、あるいは新しい意味作用がうみだされもするようであり、舞台の進行が音楽的に構成されると共に、音を発する行為が潜ませている演劇性が顕在化されている。誰にでもできるような単純な所作の見事な活用だ。
上演の途中では、作品を中断するみたいな仕方で構成・演出を手がける朝比奈尚行氏が現れて、「記録」と「記憶」を相互に活用することが新しい「物語り/歴史」を醸成することにつながることを期待したい、といった趣旨のことを語っていた。 過去の舞台の映像もただ上映するのではなく、同時に場面を再演していたのも面白かったのだけど、思い出すことが幾分過去の場面を再上映し演じ直してみるような事だとすれば、舞台そのものが身体において想起しつつ構想する場として見事に機能しつつあったというわけか。想像力、イマジネーションとは記憶作用におけるイメージの活用能力でもある。演出担当者が「作者」として作品に介入してくるのも、過去に対する現在を回想と構想の場面に差し入れるかのようだ。その事自体が作品の「機能」を明示し、また作品自体を明確に機能させてもいる。
こんな風にして舞台裏に舞台を介して立ち会う事ができるというのはとても嬉しい。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)