鉄道・車両・移動・視野・記憶...

f氏から譲ってもらったパワーブックにフロッピーを詰まらせてしまったので、Macに詳しいnさんのお部屋にお邪魔して直してもらった。池袋の近くの都電鬼子母神駅のそばで、サンシャイン60ビルを見上げる界隈だ。古く良き東京の町並みが残っている。無事に用事も済ませた帰り、大型書店のジュンク堂に寄るというnさんと連れだって、都電の軌道をまたぐ。都電のレールの幅はJRの在来線よりも広いという話をすると、それまで気付かなかったそうだ。「そんなところに気がつくというのは、昔鉄っちゃんだったってこと?」と聞かれる。僕としては、絵画や映画や、様々な芸術作品に親しむうちに、いたずらに感覚を研ぎ澄ませた結果だと思うのだけど、もちろんそんな事は言わない。鉄道マニアだったことはないが、母の話によると、幼い頃の僕は電車が好きで、散歩に出掛けたときは電車が通るのを見るまで帰ろうとしなかったそうだ、と答えた。それにしても、注意力散漫な代わりにもともと細かなものに目を留める質だったかもしれない。
子どもの頃は、電車の先頭に乗って、運転席越しに進行方向から流れて来る景色を眺めるのが好きだった。あれは小学校低学年の頃だろうか、家から電車で一時間ほど、山奥にある祖父母の村に遊びに行ったときそんな風に一人で前を見つめていると、運転手さんが運転席に入れてくれたことがある。そんな事は後にも先にも、一度だけだ。今では職務規定が厳しかったりして、あり得ない事かもしれない。そのころは田舎と言うこともあって、だいぶ大らかだったのだろう。
思い出す場面の中で、話しかけてくれた運転手さんの人柄が、 はっきり感じられる。子どもに向かって優しくしてみせようなんていやらしい素振りのかけらもない。朴訥で、快活で、今の僕にはそんな形容詞が浮かぶ。あの頃はだいぶおじさんだと思ったけど、今考えると、どこか若々しいところもあるようだ。その時の僕は、嬉しいと言うよりもむしろ信じられないような気持ちで、まじめに質問に答えたりしながら、古びた運転席にかしこまって座っていたのだろう。遠い昔のことで、そんなことが本当にあったのかどうか疑うこともある。前後の記憶はなく、夢の様に鮮明な記憶の断片は、思い出すごとに描き直され塗り替えられたイメージなのかもしれない。しかし、何か面白いことがあるのではないかと暇を見つけては劇場や画廊に足を運び、知らないものでも見てみるようになったのは、こんな出来事の記憶が心の底で響いているからかもしれない。
僕が生まれ育った長野県の南にある飯田市を通る路線は単線ローカルで、電車も今では多くて2両編成、かつてもせいぜい4両編成だった。だいたい都会で使い古された車両がまわされてきていて、僕がこどもの頃にはまだ床が木製の電車が走っていた。今では一時間に一本あるかどうかもあやしいものだ。なにかの用事で東京に住む僕に電話してきた母に、「何時の電車で帰ったんな?」と聞かれたことがある。それが僕の故郷の日常感覚だ。 かつても、電車が通るのを待つにはだいぶ時間がかかったことだろう。
幼い頃、電車が通り過ぎるのを待ち望んでいた僕の目が欲していたのは何だったのだろうか。風景の委細の中に紛れていく線路の平行線、それを辿って近づいてくる車両、車輪の軋み、視野を占領する幼い目には巨大な車両、見上げる低い視線にせまる床下のごちゃごちゃと埃と錆にまみれた焦げ茶色の機械の群。僕の手を引いた母は「電車の好きな子だ」と思っていただろうか。
かつて僕の視野を満たした出来事は、どれほど記憶に染み通り、見る目を養ったことだろう。このような物思いもまた、夢想と区別もつかないような塗り重ねられた思い出の堆積のなかに埋もれて行くのだとしても。

(初出「日々の注釈」/2010年3月12日再掲)