ポーラX

見ながら考えたこと

渋谷での上映期間も終わりに近づいてきたのでカラックスの新作「Pola X」を見てくる。見ながら考えたことを書いてみる。
シネマライズに行くのは始めて。着くと予告編が始まっている。前のほうに座る。スクリーンが曲面になっているのが気になる。非常口灯なども気に障る。
タイトルが出る前、大きな館の前からバイクが出発する場面。カメラが滑らかなクレーン移動で館の窓に近づいて行くと、部屋の中に金髪の女が寝ている。こういう手法は好きじゃないな。様々なトーンの手法が混在しているという印象だ。冒頭、主人公と婚約者が明るい草原の斜面で語り合うシーン、白い衣装の眩しさが印象にのこる。そんな訳で、白い色に注目して見ていた。豪華な城館を舞台に展開する前半と、主人公が「姉」と出会い、姉とパリに家出してゆく後半は、明白な対照を成している。後半では、貧しい界隈や、「前衛」芸術家やテロリストのアジトになっているような廃工場が舞台になり、天候も不順だ。
婚約者に会いに行こうとしてバイクを飛ばす主人公は、黒っぽい服を着ている。そのあと主人公が白いシャツを着るのは、小説の出版の相談に、編集者に会いに行く時だけだ。その時も黒いコートをその上に羽織っている。インタビューの時は、主人公は黒い服で黒い椅子に腰掛け、インタビュアーは白い服で白い椅子に腰掛けている。主人公の住む廃工場に押しかけた婚約者はしばらく白っぽいコートを着ているが、ラストシーンだけ、黒い服を着ている。前半に黒い馬と白鳥が、後半に白馬と黒い鶏、黒い犬が出てくる所を見ると、この白と黒の対比は、意図的なものではないかと思えてくる。こんなこと考えるのはまったく詰まらないことだな、と思いながら見ている。作品に接しているときは、作品の内容についてはあまり考えない。構成原理がどんなものかを考えていることが多い。
色で言うと、白と黒の間に目立ったのが赤だ。前半は主人公はパソコンの白いスクリーンに黒い文字を刻むが、後半は赤のマジックで紙に書きつけているのだ。主人公が家出する時のタクシーも赤い(まばゆい緑のなかを進むくすんだ赤)。血の川を流されてゆくCG合成の夢想シーンもある。「姉」が自殺未遂したあと、その後を追って川に飛び込んだ主人公は、赤いタオルをかぶせられる。最後、「姉」が死ぬ原因となるのは赤い車だった。
どうせ、こんな事はパンフレットの類に書いてあるんだろうな、と思いながら日が暮れた街に出ると、あたりがなんだか異様な輝きに満ちているように見える。これは、映画鑑賞が充実した経験であった証拠だ。何か、新しい感受性の回路が活性化されたように思う。何が見えているのだろうか、パリの市街と東京との落差だろうか。隠されていた何か無頓着な暴力だろうか。
見ている間に限っては、スクリーンのフレームを全く意識しなかった。これは映画に没頭していた証拠だろう、とエンディングのクレジットを見ながら思った。

作品と接している時には、内容についてはあまり考えない。一週間ほどして感想がまとまることも多い。やがて、作品の記憶が、過去の映画や生活の経験の記憶のうちに位置を占めるようになる。見ている時には、不統一さがギクシャクして見えたが、一晩過ぎると作品の全体が均整を持ったものに見えてきた。細部をほどよく適度に忘れただけかも知れないが、それは作品が新たに生きはじめたということかも知れない。

見てから考えたこと −内容について思うこと−

僕は、主人公が「姉」を引き連れて家出したことが、「贖罪」の行為であるとは思えなかった。森の中で姉の語る事実を聞いた後、家を出た主人公の動機は何だったのか、作品の中では明示されてはいない。それは、あまりに突発的な行動に見える。ここで、主人公が匿名で小説を発表した作家であることは重要なポイントだと思う。主人公は、姉に対して、姉のおかげでもっと良い小説が書けそうだ、と語っていた。主人公が姉に感謝するのは、それまでの生活を捨てるきっかけを与えてくれたからだ。君は世界の真実を見せてくれた、だから僕は良い作品が書けるはずだ、そうすれば収入が得られるだろう・・・。出版プロモーターに会い、TV番組に出演し、作品を出版社に投稿する主人公が執着するのは、「自分の作品」を世に出すことなのだ。「贖罪」という意識が一度ならず主人公を突き動したにしても。
「姉」が主人公に「弟(プティ・フレール)」と呼びかけたとき、主人公はそんな風に呼ぶな、と憤っていた。ここに、「姉」に対する弟の関係の結び方が如実に示されていたように思う。フランス語では、英語と同様に、フレールという語に兄や弟という区別はない。そこに「小さな」という意味の言葉を付けると、弟ということになる。姉妹を示す語も同じだ。主人公は母と姉と弟であるかのように呼び合っていたのだが、母子の間の言葉には、上下の区別はなかった。
「象は人間が嫌いなんだ、臭いから」という言葉は、はじめ主人公が口にしたものだ。その言葉を、不法滞在している東欧の少女がつぶやくとき、その意味合いをどこまで知っていたのだろうか。自分が置かれている状況への幾分の反発が込められていたとしても、それは無邪気な呟きであるように思えた。少女は、自分の言葉が、人種差別がある場においてどんな効果を発揮するのか全く知らずに言葉を発している。だから、これはあからさまに悲劇的な場面だ、と思う。逆に、「人間は臭い」という言葉の意味合いを知りぬいていなくてはならない主人公が、なぜこんな言葉を少女に発することができたのか。それは、自分が人間の一人であることを忘れた傲慢なのか、それとも人間の一人としての自嘲なのか。
「姉」を森の中で追いつめ、姉の告白を聞く薄暗がりの場面と、後半の「姉」と弟が抱き合う薄暗がりの場面は、対応しあっている。主人公が作家である、という点で、カラックスが主人公に自己を投影しているという可能性を考えるのは、空想に過ぎないだろうか。主人公は編集者に忠告されていた。たとえば、君がやろうとしている事は古すぎるとか。主人公はそれを十分承知しているのだろう。カンヌ映画祭での記者会見で憮然とするカラックスと、作中で質問に答えられずやじを飛ばされる主人公とが重なりあうようにさえ思えたりもする。すると、主人公にとっての「姉」はカラックスにとっては何なんだ。芸術家が渡り合う「時代」だろうか。しかし、タガが外れた世界を題材に映画を作り上げたとして、それが何になるのか。

改めて「悲劇」というジャンルについても考えてみるべきなのだろうか。カラックスは、その答えを知っていて、映画の冒頭にしわがれた独白を置いたのだろうか。

(初出「plank blank」/2010年3月12日再掲)