所作が描く相貌−ジョセフ・ナジのヴォイツェック−

日曜日の午後、世田谷にある中規模の劇場 「シアタートラム」にジョセフ・ナジの舞台作品「ヴォイツェック」 を見に行く。ジョセフ・ナジの作品を見るのはこれで二回目。前回の来日公演「カナール・ペキノワ」も、もう4年ばかり前かな。今回は狭い舞台に狭いセットを組んで、1時間ほどにまとめられたコンパクトな作品だった。前回見たときにはちょと散漫な印象を受けたのだけど、まだ舞台作りを始めて間も無かったあの作品と比べて、自分のやりたい事がもっとクリアに見えてきたのかな、と思う。

ダンス公演、と言いつつも、作品の元になるのは戯曲であって、フランス演劇の特集プログラムの一環として上演されていた。ヨーロッパ各地の演劇祭から招聘を受けているのだそうだ。たぶん、何も話を聞かないで見た人は、パントマイム的な無言の芝居とは思っても、ダンスだとは思わないだろう。舞台には埃にまみれた納屋のような場所が作り上げられていて、パフォーマー達は薄汚れた服を身につけている。場面のそれぞれも、具体的な状況を再現したもののようだ。しかし、作品を作り上げている原理は明らかに演劇とは異なるものだ。舞台の各シークエンスは、ドラマツルギーによって、人の間に生起する出来事の水準で組み立てられているのではなく、身体の所作や運動の組みあわせとして構成されている。いわばコンポジションであり、からだの動きを素材にした作曲だ。 とりわけピナ・バウシュ以降、ダンスと演劇との境界は様々な仕方で侵犯されてきたと言えるし、相互の関係も問い直されてきただろう。そうした消息を知っている人にとっては、格別目新しいとも思えないかも知れないが、ジョセフ・ナジの舞台には独特の構成原理や質感があるようだ。

パフォーマー達は、まるで良く出きた人形のように、どことなく唐突で、精密なギクシャクさとでも言えるような動きの質をもって、様々な所作を繰り広げる。舞台の薄暗い雰囲気や、陰惨なムードも合わせて、人形アニメを手がける ブラザーズ・クエイの作品、 「ストリート・オブ・クロコダイル」を思い起こさせた。舞台の上では、ナイフが振り回され、りんごが握り潰され、様々な行為がめまぐるしく展開される。複数の人物が機械仕掛けの一部となって作動するような仕方で、裸で現われた人物が布で包まれ、テーブルの上でひっくり返されたりしているうちに、軍服を着せられる、というような場面もあった。
具体的な動作が、絡み合い、もつれ合って舞台作品が出来上がってゆく。空間と時間が、小さなブロックとして組み立てられて行く、そんな感覚を湛えている。しかし、それぞれの所作がぶつかりあい、くみ上げられていく様子は、まるで様々な具象物を組み合わせて顔を描いたアルチンボルドの絵画を思わせる。そのようにして描かれた相貌は、何を舞台に現したのか。どこか快活な惨めさ、とでもいうようなペーソスを漂わせていたその舞台には、根本敬の漫画の独特な質感と通じるものもあるようだ、などと考えた。

「ヴォイツェック」という戯曲についてはあまり知らないので、テクストと上演との関係については今のところ僕に言いたい事はない。この作品はベルクか誰かがオペラ化したんだそうだ。半年ばかり前そのCDを借りたのだけど、それはピナ・バウシュの「ヴィクトール」でセリフが引用されてたという話を知人に聞いて、確かめようと思ったから。歌詞カードを見るだけで満足して、結局ちゃんと聞かなかった。日本の某劇団が翻案し上演した「ヴォイツェック」を見たこともある気がする。しかし、舞台の印象が鮮明に刻まれたので、いずれ戯曲と上演との絡み合いが別の視角から見えてくることもあるかもしれない。作品の生命は、さまざまなリズムを保って、潜在的に響き合ってゆくかもしれないのだから。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)