声を聴く耳、からだを見る目

1月31日月曜日にはPlanBにイギリスからきたアーロン・ウィリアムソン氏のパフォーマンス「Anti-Speak<反・話>を見にいく。前日の佐々木さんの公演を見に行ったときポスターが貼ってあって、興味をひかれたのだ。アーロン氏はあるとき聴覚を失った人だという。その経験をもとにしたパフォーマンス作品を上演し続けているのだそうだ。

とりあえず、気付いたことをメモする。
正面に据えられた一本の照明にステージは照らされていて、薄暗い光のなかで、うごめき、叫びをあげ、どこの言葉でもない声を呟き、脅かされているようでもあり、発作に襲われているようでもある、身体の動きは、ある種の訓練を経たもので、わざとらしく動かされるようなことはない。体の底から突き上げてくる心の動きを、体の各部分が忠実に拾い上げているかのようだ。

普通ダンサーは、踊る自分の体を見ることはできない。彼の声によるパフォーマンスは、ダンサーの運動と同じような仕方で、動きの触覚的な、体の器官の運動や摩擦という水準でモニターされつつ、生み出されたものだ、と言えるのかもしれない。ある種のノイズミュージックを聞いているように感じる一瞬さえあった。

途中で、ペットボトルから水を飲む場面があった。喉に水を詰まらせて、むせる。その音は、喉という器官が、そもそも発声という役割を持った物ではないことを気付かせる。逆に、音を発するということのさまざまな相の一つに、水と喉との関わりも還元される。声を出し、それを聞き取ることの物理的次元が、逆説的にさらけ出される。・・・というだけでは不正確かもしれない。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)

(追記)、この日、PlanBで宇野那一さんが来てたのを見た。あと、この日に風邪引いて一日寝込んだのだけど、ずっとラジオを聞いていた。それ以降、ラジオを聞く習慣ができた。