居酒屋そして劇場あるいは

この間の日曜日、国立の居酒屋キノ・キュッヘのマスターがPlanBで上映会を行うと言うので出かける。キノ・キュッヘは、実験映画の上映会や舞踏の公演などが開催されている素敵な居酒屋だ。マスターの佐々木さんは、もともと映像表現にも関わっていた人で、映像表現などの活動を通じて知り合った沢山の人から少しずつお金を借りて居酒屋をはじめたのだと言う。
ここ数年、人が集まる場所を造るということに興味がある。作家と観客、そしてそれを影で支えるスタッフや、批評家のような人が同じ場面で語り合えるような場所が今の世の中でも実現されることがあって、そんな場所での語らいに魅力を感じてきた。そんな意味で、上映会のために全国から人が集まるようなこともあるキノ・キュッヘと言う場所も私にとってはとても面白い所なのだ。

上映の方は、佐々木さんがナレーションを入れながら、かつて働いていた精神病院の実情を批判的にとりあげたフィルムや、活動を共にしたバンドの記録などが上映された。兼高かおる世界の旅みたいだ、なんて言ってもある年齢層の人にしかわかりませんね。中でもキノ・キュッヘの内装を手がけた知人の生き方を掘り下げる作品は興味深かった。その知人の映像記録を見せながら、彼の前妻にインタビューし、次にはそのインタビューテープを見た今の妻にインタビューする。画面はインタビューが映されるモニターを中心に捉えていて、インタビューされる人はちらりと横顔を見せるだけだ。かなり辛辣な批判もある。そんなモニターとインタビューのリレーが最後は本人に戻る。

僕は祖父が死ぬ間際、病室にビデオカメラを持ち込み、脳梗塞で意識が朦朧とした祖父にインタビューを試みたことがある。それまで聞いたことのない話も引き出すことができた。そのこと自体が良いことだったのかどうか判断がつかないが、祖母はそのテープを大事にしているようだ。

今回の佐々木さんの上映では、最後に映像とパフォーマンスを組み合わせた作品も上演された。しかし、その作品にはさほど感銘を受けなかった。作品としてあまり完成されたものではなかったからだ。そのばあい、芸術作品を目指そうとする意図は、返って邪魔な物に感じられる。芸術、という言葉はさまざまに人をそそのかすのだろう。しかし私は、佐々木さんが芸術家になりきれないところに、独特の魅力を感じる。佐々木さんの映像作品は、作品として完結することがない。それはむしろ常に生活の場に開かれている。だからこそ、ドキュメンタリー映像をテープに完結させることなく、上映の場でライブでナレーションを入れると言うことになるのだろう。佐々木さんの映像をめぐる活動は、自分の生活をめぐる省察と言う場面で映像がどのように作用しうるのかについて、興味深い一例を提供していると思う。

ビデオカメラは暴力的に作用することもある。それを芸術として解消しようとする人もいれば、生活の場に突きつける人もいる。あるいは・・・

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)