生まれる前のテレビ番組

最近、NHKでは深夜枠で古い番組を再放送している。「新日本紀行」も、そのひとつ。日本の各地を訪ねながらその土地の風土に根差した文化を紹介する、というものらしい。しばらく前から再放送していて何度かちらっと見たことはあったけど、じっくり見たことはなかった。それで、水曜日の深夜に、たまたま「新日本紀行」を見ていたのだけど、すっかり引き込まれてしまった。その日は佐渡の太鼓と、九州のどこかの村の琵琶法師についての、二本を流していた。
しかし「佐渡の太鼓」の迫力は見物だった。荒れる日本海をバックに仮面をつけた男達が入れ替わり太鼓をたたくシーンで終わったのだけど、ナレーション主体の番組で、しばらくコメント無しで緊迫した場面が続くのである。あるいは手持ちカメラが激しくズームインし、あるいはクローズアップの画面いっぱいに仮面を捉える。フィルムを使った画面の質感や、構図の取り方が、臨場感を盛り上げている。その前には、子供たちが太鼓を練習している場面もあって、その仕草や表情、見得の切り方なんか、とても素敵だった。一瞬、上質のイラン映画を見ているような錯覚におちいる。

それは、ちょうど71年の番組だった。生まれるしばらく前だ。今の番組作りの流儀とはだいぶ違った感覚が新鮮だ。
たとえば、ズームにしても、今ではきっとモーターでレンズを動かしてたりするのではないのかな。一般向けのビデオカメラなんかはたいていそうだ。レンズを直接手で操作した映像というのは、今時なかなか見られないかもしれない。
もっと驚かされたのは、ドキュメンタリーにも関わらず声と画面の口の動きがずれていたことだ。たぶん、カメラ一台で取材していて、録音はカメラとは別のテープに保存したのだろう。オープンリールだったかもしれない。対話の場面なんかはそれぞれの顔を映したショットから、声に合いそうなものを拾って編集したのだろう。こんな手法は今では使わないんじゃないだろうか。かつての視聴者には、それでも違和感を感じさせなかったということなのか。

この番組は、テーマとしては映像民族学、あるいは映像「民俗」学、なんてジャンルに近いのだろう。姫田忠義氏がひきいる民映研の作品を連想する。「新日本紀行」の「佐渡」の番組に関しては、それを上回る迫力があったかもしれない。
番組の中では、映像の記録に「これはもう失われつつある風習です」といったナレーションが入れられていた。けれども、失われていくのは地方の風習だけではないのだろう。「都市民俗学」とか「少女民俗学」といった言葉を発明した人もいたけど、「映像視聴者の民俗誌」というのも可能かもしれない。映像経験のあり方を採集するその研究者の目には、もはや失われつつある感受性の形が写っている。その時の資料は、たとえば部屋を埋め尽くすビデオテープの山、なのかもしれない。

(初出「今日の注釈」/2010年3月12日再掲)