ガリン・ヌグロホの「枕の上の葉」について。

インドネシアの映画監督、ガリン・ヌグロホの映画「枕の上の葉」を99年夏、岩波ホールに見に行った。

ともかく、主演の少年達の存在感はすごかった。悪ガキどものふてぶてしい風体だ。
インドネシアの都市「ジョグジャカルタ」で実際に路上で暮らしている少年達が演じていると聞いて、ドキュメンタリータッチのラフな映像なのかと想像したりもしたけれど、隠し撮り風で擬似的なリアリティをねらうなんて姑息な手段は使われてなかった。むしろ、劇映画的な美学が貫徹されている。 前にみた「そして月も踊る」では、長いショットが多用されていて、その設計や構築の見事さに魅了されたものだった。「枕の上の葉」では、カメラ移動が主役として前面に躍り出るような長いカットは無いけれど、画面構成は綿密なものだ。たとえば、「枕の上の葉」で目立ったのは、奥行きの空間をうまく使った演出だ。画面の奥まった位置から前方の人物へと絡んで行くとか(地面に埋めた紙幣を巡るシーン)、画面の奥の空間へと人物が突進するとか(夫に怒りをぶつけるシーン)。
チラシによると「町中のシーンのドキュメンタリータッチと屋内シーンの様式美の見事なコントラストが評価された」そうだ。 確かに街頭シーンはロケではあったけれども。ドキュメンタリータッチという評言が正確かどうかはわからない。例えばリュミエール兄弟の作品はドキュメンタリー映像のようであるが、明確に演出されたものなのだ。

冒頭、クレジットの文字だけがスクロールしていって、背景は黒。そこにテーマ曲のようにサックスの演奏が流れる、すると街頭の場面になり、若いプレイヤーが練習しているのか、街頭でサックスを吹いている。このサックス演奏の場面は劇中で何回か繰り返され、映画のおしまいではサックスプレイヤーが街を離れる列車に乗るショットも挿入されていた。何気ない即興のようで、60年代以降のジャズの発展をふまえた、かなり洗練されたスタイルのアドリブといったサックスの演奏だが、ミュージシャンはインドネシアの人の様だ。単なる練習の様に素っ気なく、べたついた情緒を排したこの演奏は、映画の基調をなすエレジーだと言えるかも知れない。
夜が繰り返されると同時に、朝も繰り返され、人々は今日一日の仕事の手はずを整えている、その様子が幾たびも丹念に描かれる。この映画を支えているリズムは、繰り返す日々の描写であり、そのなかでストリートチルドレンの日常が描かれている。事件やシーンの連続は、事実の整合性を保証しているけれど、物語性は、映画の叙述を秩序づける原理としては排除されている。そのようなスタイルの哀歌である、とも言えるだろうか。

撮影風景をドキュメントしたTV番組が日本で放映されたこともあったようだが、作中でのTVというメディアの扱いかたが 一つ気になった。映画の終わり近く、悲惨な事件が起きた後に、主演女優が街頭に取材に来ていたTVカメラに向かってストリートチルドレンをめぐる現状に対する怒りをぶつける場面がある。その場面は、ストレートなメッセージとして直接観客に投げかけられたものであるようにも思われた。制作者が訴えたかったことが、そこで代弁されているとさえ考えられるものだ。審美的な水準で映画を享受していた視線は、そこで戸惑いを禁じ得ない。
この映画ではほとんどの出演者が俳優ではなく素人である。出演者達は自分の姿を演じ直しているといえる。しかし、この女優はプロの役者だった。取材スタッフのカメラに向かって訴えるという場面は、作品世界において整合性を持ったものだ。その女優が演じる作中の女性もまた、TV によって決定的な事件のニュースを知るのである。作中の登場人物がそのような行為を行うことは、極めて自然なものだ。作品に取り込んだTVを介することで、現実の悲惨な状況を告発するというあまりに直接的な発言の仕方が作品の中にはじめて位置付くことができた、とも言えるのだろうか。
しかし、取材カメラの捉えた映像という設定の画像がスクリーンに直接映されるとき、劇映画的均整を保ってきた映像の様式性が一挙に反転させられてもいる。 カメラを見つめる視線が、カメラマンの存在を感じさせたり、不特定多数に訴えることを意識したものであるということは、劇映画の普通の作法を大きく逸脱するものだ。カメラが不在のものだと感じつづけるからこそ、多くの観客は映画に感情移入し、物語りとして受け入れるのだから。あるいは、緻密な画面設計やカメラワークを意識するときには、映像はあくまで静観の対象であるのだから。
観客は、あたかも自分に向かって語りかける女優の姿をスクリーンに目にする。「劇中」の取材スタッフの戸惑い、あるいは真摯ささえも、感じとってしまう。画面の向こう側に、あるいは現実感を、あるいは画面の充実を見て取っていた視線は、見つめ返されることで、「カメラがあり、画像が記録され、再生された画像を見る視聴者がいる」という、自分が日常に絶えず立ち会っている、映像が成立する条件に連れ戻される。
この地点で、まぎれもなく現実に取材したこの映像作品は、それ自体、劇映画的に自立したものとして成立しつつ、メタフィクション的な仕方で、逆説的に、観客自身の現実との直接の接点を、間接的な仕方で浮かび上がらせている。あくまで映画は映画でしかなく、どこまでも劇映画の劇作術に忠実であるが、それと同時に、カメラの存在や演技の成立を意識させるという仕方で、映画はフィクションであるということを最も雄弁に語っている場面こそが、観客に対するドキュメンタリー的メッセージ性の極まった点を成している。そこにまた、主演女優の「演技」のクライマックスもあるのだ。

(初出「plank blank」/2010年3月12日再掲)