『高柳蕗子全歌集』

「かばん」の歌会で『高柳蕗子全歌集』の読書会が開かれるというのでのぞいてきた。
http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/kasyuu.html
http://www.kaban-tanka.jp/

以下勝手にレポート。

佐藤弓生さんが歌集ごとに短歌を選んで作家性をコンパクトに説明。
メモも無いのでうろ覚えだけど佐藤弓生さんは「言葉に負荷をかけることで言葉では捉えられない領域、言葉が捉えのがすものまでいたろうとしている」「『あたし』という言葉を繰り返すことでむしろ他者性をきわだたせる」「情景としてはあり得ないが絵として浮かび上がってくる」などとコンパクトに蕗子さんの作風をまとめていた。

体言止が多いという文体上の特徴は良く語られているけど、今回は動詞で終わっている歌でも現在形が多いという指摘も。そうしたあたり、過去を懐かしみ振り返るような短歌的詠嘆から離れようとするものではないかなど指摘があがる。過去形の歌もいくつかあったが、それも物語的な言い回しであって物語の中の現在ではないか、など。

それに対し、蕗子さんは「現在形は意識していなかったけど、体言止はよくあるつまらない短歌の文体とは違うものを作ろうとして自覚的に取り組んでいた。体言止は省略しやすく余計な詠嘆などを刈り込むのにちょうど良い。自分では雷落としと言っていたけど、助詞などを駆使した散文的な仕方で最後の名詞に全ての内容が一気に結びつくような文体をつくることに苦心していた。自分の文体として確立されてからは意識しないで体言止が出てくるようになった。あまり方法に固執しなくなってから自由になれた気がする」といった趣旨のことをおっしゃっていて興味深かった。

いろいろと話を聞いていて、議論の俎上にあがった歌を見回してみて、「論理的に作られた歌だ」と思ったわたしは「一回性の出来事を語るのではなくて、条件を記述したみたいな作風のものがある。そういうところで、固定された事実の描写ではない、時間に縛られない言葉の上の出来事みたいなものが歌になっているのでは」みたいなことをしゃべったりした。

西崎憲さんが「論理的と言っている人がいたけど、言葉の組み合わせがいかに飛躍していても言葉の意味そのものがぶれることはなくて、そういうところでファーブルが昆虫を観察するように言葉を観察している人の確固とした自信のようなものがあるのでは」といった趣旨のことをおっしゃっていた。

80年代に第一歌集が出たのが前衛短歌が総括される次期だった的な言及があると、蕗子さんは「80年代に出てきたものは70年代に醸成されていたものなのよね」とおっしゃっていて、そのあたり、自分としてもちょっとヒットするテーマだった。というか、蕗子さんの装丁の感覚とか、どこか70年代的なもののような気がしたりするのですがそれは私の勝手な思いこみかもしれない。[rakuten:book:12106637:detail]