『エンジョイ』(5)

 なんかチェルフィッチュの『エンジョイ』というと不正確で新国立劇場の『エンジョイ』と書いたほうが正確らしいですね。クレジット上。まあ、いいか、と思いつつタイトルを変えてみたり。

それで、ワンダーランドに載った森山直人氏による
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=616
『エンジョイ』の記事(面白いコメントがついた)の関連サイトにqueequegさんの日記があげられていたので読んでみた。

まず冒頭、うんことしっこの話からはじまるのがよかった。新国立劇場という、日本の演劇的エスタブリッシュメントの中枢でうんことしっこの話から劇をはじめるという、ああ、それってユビュ王じゃん、と思って感激した。しかもユビュ親父の"merde"のように鋭利な音響を伴って観客を挑発するというよりも、むしろその停滞の中に供にずぶずぶと浸かりこむことを勧誘するかのような、緩慢なスカトロジー

http://d.hatena.ne.jp/queequeg/20061231#1167545516

merdeは、フランス語でくそ。日本語で「くそ!」というのが持っているのと同じ「ののしり」の意味もある。「うんこったれ」て訳してるのはなんかちがうなーと思うけど、「くそったれ」とかしたら、もともとの糞の意味が目立たなくなっちゃうというわけか。ところで、チェルフィッチュ版のユビュ王では、merdeに該当するセリフってたしかなかったですよね。

それで、冒頭の、地下鉄の駅のトイレの話って、かなり重要だと思うんだけど、そこに言及しているのを始めて読んだ(ま、まだ網羅的に見てるわけではないので見落としているものは多いのかもしれない)。

で、「緩慢なスカトロジー」というのはなるほどな指摘なんだけど、スカトロジー*1というと少しずれる気がしないでもない。

冒頭の地下鉄の話って、いろんなモチーフが織り込まれていて、多分電車の中で女二人が声高に話していて聞こえてきてしまった話というのは第三幕で語られる話にリンクしていくんだろうけどそこが綿密に描かれることはなくいろいろな伏線がほのめかされるままに放置されたという印象がある。

そういう織り目の中に、30代フリーターのひとりによる「大便器がある個室を出てから小便器に向かった男を見ておかしなやつだと思った」という語りが置かれ、そのエピソードを聞いたもうひとりの30代フリーターが「そういう経験は自分にもあるし、おかしなことではない、と考えたのだけどそのことはその場で口に出さなかった」というモノローグが引き続く。

この、内省的モノローグをするのが、自殺をほのめかすようなメッセージビデオを撮る役の人ですね。

スカトロジーというとずれる、というのは、この作中のやりとりで注目されているのは、糞尿そのもの、排泄行為そのものではなくて、むしろ、そういう「生理的自然」に対するコントロールのあり方であって、そういう点をめぐる二つの視点がゆるやかに併置されている構造が問題なんだと思う、という感じ。むしろ語りが喚起するのは蛍光灯に照らされた清潔な化粧室のイメージだったように思うし。

スカトロジーって多分、禁忌に対する侵犯みたいな、何か倒錯的にことさらな主題化が行われるような何かじゃないかと思うのだけど(違うかな)、『エンジョイ』冒頭のトイレの話というのは、そういう倒錯とか侵犯とはあまり関係ないのじゃないかと思う(いや、queequegさんが言いたいのはそういうことではなかったのかもしれないけど)。むしろ、語りのレベルでは、排泄に直接言及することを慎むという規範は穏当に保たれるわけで、それは、排泄物や排泄行為そのものではなく、やはり化粧室の話なのだ(トイレというよりも化粧室)。社会から排泄物や排泄行為を隔離する場所としての化粧室≠トイレ、その隠蔽の境界線に語りは留まる。

「普通小便してから大便するでしょう、それが個室から出て手を洗うのかとおもったら引き返して小便器に行った、そんなのおかしい、ありえない」というフリーターに対して「なんでそうなるのかわからないけど、そうなってしまうことがある」と内省するもうひとりのフリーター。気がつくとなぜかちぐはぐかもしれないことをしてしまうことが良くある、という内気でためらいがちな独白が、気がつけばなぜかずるずるとフリーターを続けてしまった、という思いに重なっていく。

排泄というのは、生命維持に直接つながっているもので、その生きることに自然な営みが社会的な規範のなかで衛生を理由に組織的に隔離排除される。そうした社会衛生の一端に、排泄の始末をつける作法を身につける中でそれぞれの個人はつながっていて、フリーター問題を生きるということのひとつのモデルみたいにそうした構図は冒頭に示されて、モチーフの配置を潜在的に描き、問題を主題化するための下地を作っている、ということだと思う。

作中のフリーターの語りの中に描かれる通りすがりの男の行為に対して内省的に注意するもうひとりフリーターの独白、という風に語りが受け渡されていく構成のありかたや、語りが喚起する情景の中で通りすがったままに消えていく男の特に誰というのでもない存在のありかたとかが、作品の中にとても重要な位置を占めているように思う。

それで、この駅の化粧室をめぐるモチーフが『エンジョイ』の冒頭に置かれていたことは、『三月の5日間』において、ホームレスが街頭で脱糞していた、というモチーフが作品の末尾に置かれていたことと反転した仕方で呼応しあっているのだろうと思う。ある遠くの戦争、社会の営みであって、社会が破綻する場所を開くものでもあり、多くの生命が危機的に自然にさらされる(身体の破損というどうしようもない自然状態)ような戦争という状況に、社会から孤立したラブホテルの中の性行為という自然を対置したあとで、街頭でのホームレスの脱糞が置かれることには内的に一環する思考があるはずだ。

こういうところで、自然と文化の境界みたいな構図が描き出されてしまうことには理由があるだろうし、やはりなにか重要なんだろうと思う。政治的なモチーフが、そういう構図を要請する、というのはどういうことか、と考えたりする。

(加筆修正.07/01/28)

*1:「スカトロジー(scatology)であるが、日本語では、これは一般に「糞便学」と訳される。大便のにおいの主成分であるスカトールに由来するギリシア語起源の語で、文字どおり動物の糞便を研究する学問分野を意味することもあるが、一般には排泄物を中心にした汚穢文学(研究、趣味)を意味する。(中略)プチ・ロベールによれば、〈scatologie〉なる語が用いられるようになったのは19世紀末のことだとされており、これが事実なら、この語自身は僅か百年ほどの歴史しかもっていないことになる。しかし、これ以前にスカトロジーがなかったかと言えば、さにあらず。フランス文学においては、スカトロジーは立派な伝統と格式を誇る文学の一ジャンルなのである」http://www.adachi.ne.jp/users/yossie/scatolo.htm