山下残『船乗りたち』

それで、山下残さんの公演『船乗りたち』を見た。山下残さんは、何年か前、新宿パークタワーホールのネクストダンスフェスでソロ公演してたのを一回見たきりだったのだけど、気になるダンサーではあった。

まず会場の倉庫跡みたいな空間がなかなか味のあるところで、コンクリートの柱に倉庫時代の「何トンまで積める」みたいなことを表示したペンキの文字が残っていたりするのが素敵だった。

そこに、シーソーの平面版みたいな装置がおかれている。上にのった人の重さのバランスで前後左右に動くようになっている、いかだのように丸太様の木材を並べて作った平面がある。数人の男性ダンサーがその上に乗って、乗ったまま舞台は進む。

雨風の音みたいな効果音が流されたりもして、遭難しているいかだの上の情景みたいでもある。そこで、男達が、ちょっとユーモラスな風に右往左往して、時折関わりあったり、関わりあわなかったりして、時間をやりすごしていく、そんな風な作品だった。

さて、それ以上の印象は残らなかったというのが正直なところで、ぐらぐらしている床の上で複数の人物が移動しあってバランスをとっていて、そこで重心を失って転ばないようにそれぞれの人が足元おぼつかなくなったりしながら、かろうじてバランスをとっているという以上の何かがそこで行われているというわけでも無いような場面が多く、時折、なにかジェスチャーでコミュニケーションのようなことが図られていたりするという風だけれど、それも、浮かんでは消えるような形で明確にドラマをなすというわけではない。でも、照明や音響の変化はある持続的な状況の再現を示唆するようでもある。

まあ、特殊な身体の提示の仕方ではあり、ほかのダンスとかと比較する余地があまり無いということもこの作品の語りにくさなのかもしれない。いろいろな意味で宙吊りになってしまった身体が提示され続けるというところではじめて感得できる、「身体間の関係にささえられたあてどない人間関係の様相」があると言えなくもないのかもしれない。

その宙吊りというのは、いかなる身体技法の徹底からも逃れる位相にあって、あるいはそういう宙吊りにおいてこそ、身体をことさら表現や探求の舞台にするという見方からの自由が得られるということなのかもしれないが、逆に言えば、それはあまりにトリビアルすぎる身体なのである。たくさんの人の顔を重ね合わせた「平均顔」のような身体の位相が現れていたような気さえする。・・・・という言い方をしてしまっては、上演に立ち会った経験からちょっと離れてしまっている気もするけれど、アンチ・ドラマでもなく、ドラマでもない、その微妙な位相のどこまでも中途半端な中途半端さというのは、あまりありそうでないものなのかもしれないと思う。

さて、考えてみればそのあと「24時間のホスピタリティー」というバンクアートの(正式名称はカタカナじゃないけど、めんどくさいので)展示企画も見ているのだった。それなりに興味深く見たけどもそれなりの興味深さ以上のものは無いといったところ。ニブロールの展示は使いまわしだったなあ。まあそれが悪いと言いたいわけではないけれど、同じ作品の再展示ではなく、使いまわしという印象になってしまうところにニブロールのゆるさがあって、そういうやりくり具合は今までは上向きに作用してきたのだろうけど、いつまでもそれで上手くいくとは限らないだろうとか考えたりもする。

(2006・1・22)