ポスト*労苦の終わりを見た

現代詩手帖』で岡田さんが書いていた文章でも、語りに付随する身体運動、というところに論点がおかれていて、語りを聞いている側の身体運動というポイントにはあまり焦点が当てられていなかった。

今回の公演では、喋っていない演者の様々な動きにむしろ注意が向かうところがあった。

たとえば、パイプ椅子をたたんで倒す演技の対称的な反復とか。

チェルフィッチュの空間造形性に新しいフェーズが開かれた作品と位置付けるべきところかもしれない。


ちょっと事情あって、チェルフィッチュ関連のいろいろなサイトを見てまわっているところ。

中西さんの以下の位置づけ、群像セリフ劇ではないという指摘は、なかなか重要じゃないかと思う。
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040604#p2