若尾伊佐子ソロ公演、サ・カ・マ・ル・ン・ドⅦ

1/15の土曜日、若尾伊佐子ソロ公演、サ・カ・マ・ル・ン・ドⅦを中野のテルプシコールに見に行った。若尾さんが出た舞台は何度か見たことがあったけれど、ソロを見るのは初めてだ。サカマルンドというのは耳慣れない言葉だけど、造語か何かなのかな。

今回の公演は、身体を運ぶこと、身体を支えることについての一考察であるように思えるものだった。そこから、ひとつの、多様な、身体の質が浮かび上がる。

衣装は白い肌着にちかいようなもので、両手はすっかり露出しているし、足も付け根まで良く見える。足の付け根の腱はこんな具合にできていて、こんな仕方で動くものなんだ、と改めて気づかされるような瞬間が何度かあった。つやのない布地のように滑らかな色白の肢体は、皮膚の奥にある腱や筋肉の動くさまを、つつましげにあらわにしている。

舞台にゆっくりと崩れるように倒れこんで、宙を足でかくような動きをしつつ背を丸めて回転していたかと思うと、両腕で身体を前に運んでゆく。そして、しばらく四つんばいになってうごき、やがて臀部をゆっくりと持ち上げて行ったかとおもうと、そのまま足をゆっくりと蹴りあげながら両手を床につけたまま前進する。そんな風にして、このひとは舞台を経巡ってゆく。

様々に条件を変えながら、丁寧に、身体を運ぶ様々な仕方が試みられているかのようだ。それはなんだか、進化の過程で身体の器官が様々に転用されながら、歩行や走行という運動の形態が生み出されてきたことを連想させるものだった。

そこにある運動は、トレーニングを前提としてはじめて現れるものではあった。たとえば、足首をのばして、足をすっくと一直線にのばす動きの確かさは、バレエか何かの修練を重ねていることを思わせた。しかし、その運動は、身体運動を練成することによって、舞台に虚像を重ねてゆくようなものではなかった。まるで、身体の生々しい感覚がそのまま伝わってくるかのような印象が、そこにはあった。

身体という見慣れているはずのものが、なにか初めて見るもののように見えてくる。新しい動きがはじまるにつれて、新しい身体の感じ方の領域が、一枚一枚ヴェールを剥ぐように、次第に開かれてゆくかのように。

正面を向いて舞台の真ん中に立ち、様々な樹木の形態を示すように、硬質な印象の残る動きで、両腕による幾つかのポーズをとってみせたあとで、みぞおちの手前に両手をゆるやかにむかいあわせて球形をおぼろに浮かび上がらせるような仕草をとったとき、その微妙に力が抜けた、しかし緊張が行き届いているようにも見える手が見せる形態は、まるで生まれて初めてみる形であるように見えた。

舞台を経巡り、時に駆け出したりもしながら、若尾伊佐子の視線は、どこを見ているというのでも無い仕方で様々な方向にぼんやりと投げ出されているかのようだった。微妙に変化し続ける穏やかな照明の効果だろうか。白目はほとんど見えない。ぼんやりとした闇が眼窩に滲んでいるかのようだ。

終演後、カノコトという劇団を主宰している演出家でパフォーマーの戸田さんとちょっと話をしたのだけど、戸田さんは、今回の若尾さんの公演では、運動に方向はあっても目的はない、とおっしゃっていた。

つまり、目線は、どこか目的となる終着点を見据えているのではなかった。そのときそのときに刻々と変化する、場所と身体の諸条件に即座に緻密に丁寧に反応することだけに集中している、その茫漠と広がった視線のあり方が、そこにあった、そういうことだろうか。

様々に条件を変えながら丁寧に動いてゆくというそれだけのことをしていたからこそ、運動の形態や姿勢の中から自ずと立ち上がってくる質が、舞台の上に次々に、新鮮な仕方で現れていったのではないか。そう思われる。