イマージュ・オペラのマーカイム

10/4月曜日、阿佐ヶ谷ヴィオロンイマージュオペラ脇川海里の公演を見に行く。
ティーヴンソンの文学作品にインスパイアされた作品ということだったけれど、確かに、世界に安住できない存在が、世界との不和、その乖離に懊悩する、といった主題が垣間見えるような舞台ではあった。

基本的には舞踏において今まで開拓されてきた手法が踏襲されている。それが、内容面において、日本的な土着性など、ある時期の舞踏において様式化された趣味に留まることなく、近代文学的な主題へと展開されている点に、脇川の知性が感じられる。脇川の指向は、舞踏が出発点においてはモダニズムの一展開でもあったということを考えれば、むしろ、舞踏の正統を継いでいるものだろう。

脇川がダンサーとしてトレーニングを始めてまだ日が浅いことを思えば、健闘していると言うべきだろうが、しかし、まだまだ迫力が足りないという印象だ。舞踏として見せるべきポイントと、演劇的な、ないしスペクタクル的な、演出の間で、良いとこ取りしようとして、単なる折衷に終わっていると言うべき公演だったかもしれない。主題が、知的操作による意味的な要素の配置、その計算に終わっている限りは、舞台作品として具現化される前の構想が先にちらついてしまうだろう。

前半、頭を提灯状の黒い袋で隠して、ワイシャツにネクタイとベストといった衣装を前後反対に着て演ずる場面が長く続いた。それだけで、身体が異様に歪んでいるような感覚がかき立てられる。手法としてはそれほど画期的というわけでも無いだろうけれど、身体認識の基本的な機制がずらされる所に生まれる単純な効果について、いろいろと考えさせてくれた。