6/17オガワ由香

http://d.hatena.ne.jp/queequeg/20040617#p2
にも言及されているように、オガワ由香『意志の螺旋(7) 火の輪郭』を見た。会場は主催者側のチラシでもわかりにくいところなのだった。というのも、スタジオとは言っても普通の家屋の中にある個人的なスタジオなのだ。自分の家にダンス用のスタジオを構えているというのは、なかなかぜいたくな生き方だなあと思う(オガワ由香さんのお宅ではありません)。

オガワ由香のダンスは、予定された動きではなく、その場所でそのときに動きが生み出されてしまうような、その突発するみずみずしさを捉えようとする試みではないかと思う。なので、公演の流れのなかでどのような所作や動きがあったかということを記述しても、そのダンスの核心をとらえることは出来ないような気がする。
外見的に言えば、ほとんど同じ動作の緩慢な繰り返しの中で動きのモチーフが変形していくかと思えば脈絡無く別のことが始まる、というようなことが続くのである。

しかし、空間的、時間展開的な造形としても、幾何学的で単純な原理の展開として予測できないものでありつつ、ある種の緊張が持続するような「ラディカルな併置」として、見応えのあるものであった。

ラジオの韓国語講座が断続的に流されたり、おもちゃのライトサーベル風なものが小道具で使われたり、スティービー・ワンダーの曲が繰り返し流されたかと思うと、ぷっつり途絶えてしまったとか、そういう要素の積み重ねを記述しつくしたところで、何が語れるのだろうか。しかし、それらの積み重ねを省略したところで、そこから生まれる質について十全に語れるわけでもないのだ。

しかし、計画的ではない意志の突発として現れるようなダンスの質も、併置のテンションも、どちらにしても分析的な記述を行えばその質を語ることのできるものでもなく、比喩にせよ抽象概念を重ねるにせよ、言語のアクロバティックな行使によって間接的に想像を促すことしかできないように思う。

武藤氏のダンスについての記述を読んだりすると、自分には身体動作の成り立ちを細かく細かく分節するように見る力が欠如しているんだろうな、と思うわけだけど、受動的になされる知覚的質の総合に身をゆだねるようにしてダンスを見ながら、この経験を書けるとしたらどのようにしてだろうかとぼんやり考えていたりもした。

(黒沢美香のパートナーでもある)出口→氏が音響や照明で関わっていた。彼が寄与する所も大きかったのだろう。オガワ+出口のユニット「ボリショノーツ」というのもあった。

オガワ由香は、STのダンスラボに登場したのを見て以来、何度も見ている。NextNextに出たときには、彼女のダンスはハシゴした企画が遅れていたせいで遅刻して見られなかった。話によると、森下スタジオの広い空間を使いきれていなかったそうだが、狭い空間でダンスを追及していくという道も当然ありだとおもう。文芸作品とはいっても、小説と、短詩形*1とは全く別の成り立ちをしているように、小スペースでのダンスと広い劇場でのダンスは全く別のジャンルだと考えても良いだろうと思う。まあでも、ジャンルとして独立するほどの客層が形成されることは無いということだろうか。

*1:短詩型と書くほうが正しいようだ。意味合いから言ってもそうだろう。でも短詩形と書くのが間違いと言えるのかどうかはわからない。google:短詩型] [google:短詩形