黒澤美香と踊る万城目純

昨日見た公演について、メモしておこうと思う。
赤紫がかったピンクの電灯が天井で光っていて、客席も舞台も均等に照らしている。開演のアナウンスがあっても、しばらくなにもおきない。ずいぶんたって(五分以上だろうか)客の注意も散漫になり始めたころ、舞台下手側に張られた暗幕の仕切りがゆっくりとふくらみ、その奥からゆっくりと黒澤美香が登場、緩慢な動きで、下手奥に移行し、そこに留まる。後から登場した万城目純は、小刻みにすり足のように足を運ばせながら、舞台を大きく円を描くように回ってゆく。前半一時間は、緩慢に佇んだり、床に沈み込んだりする黒澤美香に対して、万城目純は小刻みに前進しながら円を描くというパターンをベースに、時折二人がコンタクトを取る瞬間が訪れるという仕方で展開する。はじめ無音、しばらくすると、間欠的なピアノの単音が流れはじめたりするが、緩慢な時間が流れる。照明も、しばらく客入れの時のままであった。

ダンス批評家が黒澤美香について論じるときに、そのテクニックの緻密さ、運動の正確さというような事を語ることがあるのだけど、今回の黒沢美香を見ていて、そういった評言を思い出すような瞬間が多かった。立っているときの何気なく少し上げた足の角度だとか、両手をついて床から上体を起こすようなポーズを取っているときに、幾分左手の手のひらが宙に浮いているときの腕のラインだとか、見事に決まっているとしか言いようが無いような気がする。完全に横たわっているときでも、身体の緊張のあり方は立っているときと同質であったりする。やっぱりすごいことなんだろうとおもう。そして、全ての動きの密度が均質であるように思える。座り込んでいるようなときでも、たとえれば水銀の一滴が留まっている時、それは流動を保ちながら力の均衡のなかに静止している、そんな印象だ(ということを見ながら考えていたのだった)。

前半のある瞬間、呆けたようにぼんやりと口を緩めた万城目純が、黒澤美香に触れそうで触れない近さに近づいてゆき、黒澤美香が間合いを計りながらゆっくり後ろにさがってゆく場面などは、下手なデュオよりも緊張感を覚えながら見ていた。

万城目さんの作品やダンスは今まで何度か見ている。退屈したり面白がったりしてきた。一度、「透視的情動」が西荻窪かどこかで開催されたときに見た万城目氏のダンスには、独特のぬらっとした印象があって記憶に残っている。
万城目さんというのは、ついつい余計なことをしてしまうタイプの作家ではないかと思う。思いついたことをやらずには居られないのではないかと思う。そんなくだらないことをやんなくてもよいのに、と思ってしまうようなことを、真面目なんだかふざけてるんだかわからない様子で敢行してしまうというか。ともかく、時折ある種のいかがわしさを漂わせているような人だという印象がある。
今回の公演でも、なんだか余計なことばかりやっていたんじゃないか、というか、黒澤美香の昨年の公演「ハワイ」での、丸太切りに相当することをでたらめにも繰り返していたというか。特に、万城目さんが床に倒れてから後のいろいろは、もう出鱈目というほかない。舞台は収拾つかない状態になっていた。

しかし、余計なものの徹底の中で、愚鈍さを露出してしまうような万城目氏の姿には、ただの出鱈目といって済ませられないようなものもあるような気もする。