「今だから、宅間守」の今だから
この斉藤斎藤の短歌連作のタイトルにある「今だから」の今というのはいつなのかという話を書きます。
(承前)何が芸術なのか(メモ) - 白鳥のめがね
「今だから」の今というのは、掲載された『るしおる』が出た2007年1月なんだろうか。でも、それでは、あえて「だから」と理由付けする意味があまりない。
附属池田小事件 - Wikipedia
あるいは、光市母子殺害事件の裁判が継続していた、そういう意味でのタイムリーさを言う「今だから」だったのだろうか。
光市母子殺害事件 - Wikipedia
連作中に、死刑制度やイラク戦争への言及を示唆する要素がちりばめられているので、そういう意味で、「そのようなことが問題になっている今、あえて宅間守のことを想起し、主題化するのだ」、という意味合いは、確かにあるのだろうけど、それだけではないと思う。
斉藤斎藤には
加護亜依と愛し合ってもかまわない私にはその価値があるから
という短歌作品があって
将来的にスキャンダルとかあったら別の含意を持つよなとか思って読んでいたということを妙に思い出す最近ではある。
『渡辺のわたし』の肉まんひとつ - 白鳥のめがね
とか以前書いたけど、あえてこの短歌を発表して第一歌集に収めるにあたって、当然この固有名詞が将来意味合いを変えていくことは斉藤斎藤の計算のうちにあっただろうと思う。
宅間守を中心に取り上げる短歌連作「今だから、宅間守」のタイトルについても、同じ計算があったのではないかと思う。
読者が掲載誌を手に取り、読むそのときがそのつどの「今」なのだから。
(続く)