Off Nibroll public=un+public を見る

・公演情報
http://www.nibroll.com/newinfo/unpub.html

インスタレーション会場での公演ということだが、公演だけしか見ていない。公演中に観客が移動したりとか、劇場とは別の空間を使おうという意図が打ち出されている。けれど、結論としては、振り付け作品として考えた場合は、劇場でやった方が良いものだったのではないかと思う。

振付を組み立てていく発想のベースに、やはり、どこまでも劇場の舞台を基準にしたものがあるのではないだろうか。起承転結があるような前進的な展開だとか、緻密に織り込まれた様々な身振りだとかは、やはり劇場の舞台において映えるものではないか。ギャラリー的スペースも、舞台として用いられるなら、やはり、劇場よりも条件の悪い舞台と化してしまう。

ギャラリー空間でなされるダンスは、時間的な展開ではなく、むしろ、場所に馴染む雰囲気のようなものと化してしまうものであったり、あるいは、ある種のマチエールと化して空間を埋め尽くしてしまうようなものであったり、する方が、ギャラリーならではの体験を作り出すことに成功するように思う。


BankART 1929ホールというのは、変則的な空間になっていて、あそこでしかできない公演を企画するのがひとつの魅力になっているとは言える。しかし、劇場とは全く別の空間を、舞台芸術家が作りだせるかというと、それは別問題だろうと思う。劇場という制度を超えることは難しい。


今回の企画は、オーストラリアのダンサー・振付家、ジョー・ロイドとのコラボレーションでもあった。その点では、矢内原美邦の様式をかなり咀嚼している様子もうかがえて、以前のアメリカのダンスカンパニーとのコラボレーションよりも一歩踏み込んでいたとおもう。

これは、矢内原美邦本人と二人のデュオということも、密な対話を進める上では好条件だったのだろう。

ジョー・ロイドが寄与する面がどれだけあったかわからないが、矢内原美邦的な、テクニックを無効にするような振付の方が前面に出ていて、体格や身体文化が違うと、同じ矢内原流の様式でも全く別の印象を与える。全く別のスピード感。

しかし、このコラボレーションは、互いの体格や身体感覚の相違の中からそれに相応しい、あるいは、それを破壊するような、身振りの領域を見出すところまでは、到達していなかったのではないだろうか。

コラボレーションというのは、実験としては有意義だろうが、そこから成果をもたらすことは、常に難しい。

後半、だれか知らないがアメリカのバンドの歌にあわせて振付けされた場面があった。ニブロールの今までの公演でも、歌に振付ける場面がいくつかあって、忘れがたいものがある。歌詞があって、メロディーがあって、それに寄り添うというよりは、その歌の構造のなかで飛び回っているような、時に抒情的なまとまりをもった振付。その魅力をまた、味わうことができたのは幸せだった。そしてそれは、どこまでも、舞台芸術の魅力なのだった。