時代の変わり目だとか考える
『ユリイカ』の米澤穂信特集を買ってしまった。
なぜか渋谷のタワレコのインディーズコーナーでDVDとか平積みしている特集っぽい棚においてあったのだけど、どういうセレクションだったのかそのへんに疎い私にはわからなかった。うーん。日常の謎?
私が米澤穂信を読んだきっかけは、穂村弘が朝日の書評欄で『春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)』を紹介していたから。それだけでは手に取るまで行かなかっただろうけど、ちょうど大学の近くの本屋が入り口近くに平積みにしていたので文庫だし気軽に買ってみたのだった。
ちょっぴりペダンチックでしかし瑞々しい文体と人物の魅力をひきたてるディテールの巧みさに引き込まれてしまった。続編も楽しく読んだ。
穂村弘の書評は「世界について怯える少年少女の特異な感覚」とかという風なものだったと記憶しているのだけど、読んでみると印象がぜんぜん違う。むしろ主人公たちは自分の力に怯えている。自分の力をどうあつかったらいいものかもてあます主人公たちの造形に毅然とした倫理観みたいなものが貫かれているといった印象がある。
でも、それを穂村弘一流の誤読とかミスリーディングとか言わなくてもいいのかもしれない。結局、自分を自分たらしめている世界への畏れみたいなことにまとまるのかもしれないから。
とかと思っていたのだけど、件のユリイカをちらちら見つつ、そんな感想もつまらないかなあとか考えあぐねているところ。「学園もの」という切り口から導入する佐藤俊樹さんの文章を読んで、「いきなり世界とか言うより社会の成り立ちでワンクッションおいた観点の方が面白いのかも」と思わされた。セカイ系とかポスト・セカイ系とか言われてもあまりピンと来ない私ですが。
ともかく、米澤穂信さんみたいな作家が出てきたというのも一つ時代の曲がり角があったということだろうなと思いつつ、さっそく図書館で『毒入りチョコレート事件』と『横しぐれ』を借り出してきた。
そんな午後、mixiの細野晴臣コミュで「YMOから細野さんを好きになった者としては、はっぴいえんどからのスタイルの変遷はとても不可解です。はっぴいえんど(あるいはエイプリルフール)からファンの方は違和感なくスッとYMOを受け入れられたのでしょうか?」という質問から始まるスレッドが立っているのを読んだ。リアルタイムで聞き続けていた人が「生田朗さんというキーパーソンがいるわけですから、それを考えればうなずける」といったコメントをしていて、不覚にも知らなかったので検索してみて、なるほどな、と。
http://webmagazine.gentosha.co.jp/backnumber/vol51_20020615/onlyyesterday/20020615_01.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%94%B0%E6%9C%97
生田氏がいなくなって以降の坂本龍一は・・・・的な言い回しがクリシェになるのもうなずける。
http://www.chokai.ne.jp/mimori/aki.html
ここで紹介されている「パソコン通信」の話。今にしてみれば当たり前になったことが当時いかに先進的だったのかとおもうと感慨深いものがある。
こんな風な活躍も。
http://www.agentcon-sipio.co.jp/discography/cocs-2002.html
http://www.istpac.com/istpac_company.html
http://www.geocities.jp/emiry0326/nenpyou002.htm
ユリイカでは『さよなら妖精 (創元推理文庫)』の担当編集者が「舞城王太郎、佐藤友哉、西尾維新をデビューさせてなおかつセールスに結びつけた太田克史の功績」ということに注で触れていたのを読んで、こちらも疎かったので「へー」と面白がっていたのだけど、時代を動かす人、仕掛けていく人のことをいろいろと考えさせられた一日だった。いまさらちょっと憧れてしまう。