わたし『渡辺のわたし』の批評会を見に行ったわたくし

斉藤斎藤第一歌集『渡辺のわたし』批評会に出かけてきた。

今回の批評会でひとつ際立って明らかになったのは、「父とふたりぐらし」の、家族事情を語る連作が『渡辺のわたし』の受容を好意的なものとする上でかなり大きく作用したということでしょうか。

小池光氏だけでなくて、司会の穂村氏から指名されて発言していた歌人のみなさんの多くも、私的な背景をストレートに語る作風がまとめてあったことで、読みの根拠みたいなものが与えられた安心感とか信頼感が生まれたという風なことをおっしゃっていたように思う。

その点で、近代短歌のリアリズムとの違いみたいな話は一応振られはしたけれど、あんまり議論が深まらないまま終わったような印象があった。

江田浩司さんが、リアリティがあるというよりは、こうすればリアリティをもって受け取られるだろうというコード化の計算みたいなものが先立っているのでは?という指摘を批判的に行っていたけれど、そこから先に話が進まなかったように思う。

その点では、松木秀、中澤系との比較で、斉藤斎藤の方がメタ性がある点で強く、前二者が傷つけられている印象なのにたいして斉藤斎藤は攻撃的であるように見えるという指摘を穂村弘が行っていた。

そこでいう「メタ性」というのは、穂村弘のレジュメでは、短歌の創作ルールや読みのルールの変更を可能にするような、ルールそのものへの反省として語られている。表現のリアリティではなくて、リアリティありそうな表現のコードを使っているという指摘は、このメタ性の話の裏返しということになるだろう。

このリアリティとメタ性という話を捉え返して私なりに敷衍してみるならば、メタ性というのは、言語によって現実を主題とするための、言語に対する戦略の一つと見るべきで、言語の現状をふまえた上で現実と向き合うために言葉を機能させるための戦略でもあると言うこともできるだろうか。

そういう観点からすれば、穂村弘の言うメタ性が、表現におけるリアリティを蘇生するように働いているのかどうか、それぞれの作品のレベルで検討してみる余地は大きく残されているということになるかもしれない。

たとえば、

 蛇口をひねりお湯になるまで見えている―そう、ただ一人だけの人の顔が
    (『渡辺のわたし』38頁)

岡井隆の<私性>に関するテーゼを踏まえていると指摘している人がいて、言われてみれば確かに岡井隆からの部分的引用になっている*1。そういうところで、メタ性が高い歌、ということになるだろうか。じゃあこの引用がどう成功していると言えるのか考えてみる余地はあるだろうけど。

文脈を置き換えることで同じ言葉が如何に別の意味合いを持つか、ということの事例である、というあたりが考察の出発点だろうか。
岡井隆の歌論から今までしきりに引用され議論されてきた部分であるという事実を、この一首がどのように逆照射するのかは検討課題としても。

でも、この引用を指摘した発言者の方は、岡井隆を踏まえている事実が信用度を増していると言っていたけど、そういう風に信頼が形成されるのってどうなのか、とか。

他方、ふと思い浮かんだり耳に入ったりする言葉をダイレクトに切り取るような表現に注目して、既存の文学によるリアリズムを超えたリアリティがそこに実現されている、と指摘する発言もあったりした(そこに、短歌のルールの更新がある、という感じになるのだろうか)。

田中えんじゅさんが、歌集のなかに大きな温度差がある、ということをおっしゃていたのだけど、現実を切り取る様々な仕方が混交している、その手法の多様さを語るべきなのかもしれないとも思う。

そういったところで、「一神教の都合」とかにあらわれた、イラク戦争とかに言及した時事詠がどれだけ成功しているのかについても、もうちょっと掘り下げがあったらよかったのになあ、と思う(小骨を抜くベトナム人、といったあたりで、社会への視野の確かさを感じた、といった発言はあったけれど)。

トリビアリズムとか、身の丈のリアリズムとか、観察の細やかさとかという話に話題が傾いていたのはちょっと残念だ。

岡井隆の口から加護亜依なんて固有名詞が出たりしたらどうしようとか思ったけれど、そういう事件はおきなかった。

岡井氏は、斉藤斎藤は連作で勝負する人だみたいなことを「とあるひるね」を例にしておっしゃっていたけれど、たしかに巧みな連作構成があったりする一面で、作風や主題の面でかなりばらけていて、制作時期もばらばらであるだろうような作品が配置されている一連もあったりするので、「連作」ということだけでは、斉藤斎藤の構成手法は語れないような気もする。

「とあるひるね」に関して言うと、小池光さんは中原中也の作品との連関を指摘しながら、わたしとあなたを「斎藤と渡辺だ」と、つまり自己分裂だととらえて語っていたのに意外な思いがする。

あれって、単純に言えば『転校生』式に、私の意識が恋人の身体に宿ってしまうという話だと思うんだけど、どうもそう読んでないみたいで、どうしてなのかなあ。禁欲的なのだろうかとか思ってしまった。

あとで池袋リブロに立ちよって、角川『短歌』別冊の2004年短歌年鑑を確認してみたら、小池光さんが話したことの多くは、そこで書かれていることだった。ひとつ聞き逃したことがあって、それは短歌年鑑には書かれていないことだったみたいで、ちょっと悔しい。

その聞き逃したところで、小池光さんは、斉藤斎藤作品のある特徴を典型的に示すものとして

 自動販売機とばあさんのたばこ屋が自動販売機と自動販売機とばあさんに

を挙げて、たばこ屋がつぶれて自動販売機二つとなり、たばこ屋のばあさんは、ただのばあさんになったことをあらわしているのだ、という読みを披露していた。

そう読み解けるのは、さすが歌人の読みはすごいと思わされたし、『渡辺のわたし』がまだまだ読めていなかったと気付かされた。

こういう、言語の微細な違いを積み重ねる所ではじめて成り立つ表現のことを特徴として示したかったということなのだろうけど。たばこ屋がつぶれたことなど語らないことによって、言語のフォルムにおいて、たばこ屋をたたんで奥に引っ込むおばあさんの存在を端的に示してしまうというような。


穂村弘は、斉藤斎藤は、視線は醒めているけど、ハートは熱い、その強い本気さを感じて、格闘技会場に登場した傭兵にたとえたのだと語りつつ、斉藤斎藤のモラルを、ますます混んでいく電車の車内で席を詰めさせるよう促すようなものとたとえていた。

この比喩は多分、短歌によって幻想やイメージのたわむれに向かうのではなく、現実にひたむきに向かおうとする姿勢があるということを指摘したいのだろうけど。

穂村弘は、斉藤斎藤にはポエジーがない、と言う。エスカレーターで土下座したいとかは、自分でも作れそうな歌で、そこには斉藤斎藤の本領はない、みたいな話もしていた。

そういう流れを思うと、「とあるひるね」について、穂村弘からの評価をきちんと聞いてみたかった気もする。そこでは、極めてファンタジックなものが、華麗な幻想性というのではない方向で展開しているわけで。



「第三者さんに比べてもらう」とか「よそ様の作中主体」とかいう言い回しは、自分はつっこまれる側に回らないようにするために斉藤斎藤が身に着けている防御姿勢なのだろう、みたいなことを穂村弘は指摘していた。

それを受けて、小池光は、いや、そういう言い方は業界用語的に奇妙な敬語として用いられうるもので、お役所の人とかが、第三者さんに入ってもらいましょうとか言いそうだ、そういう妙に慣習化してしまう言い回しを批評的に取り上げて用いているのだろう、と指摘しながら、最近は患者様とか言いいながら、そういう病院では患者になにしてるかわかったものじゃない、とかおっしゃってもいた。

こういうところで、印象論ですがと前置きしながら批評を進める梃子の支点として作者像を措定することにこだわる穂村弘と、小池光の読みの姿勢の違いみたいなものが現れているのかなあなど思ってみたりもした。

(2008年7月29日 mixiから転載)

とりあえず、他の方々のレポートをリンク

田中えんじゅさん
http://blog.goo.ne.jp/enjugumi/d/20050327

正岡豊さん
http://www.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=36640&log=20050329

牧野芝草さんの詳細なレポート
http://www.geocities.jp/mugen_kangeki/Sanryo-syoyo/03/050327-1.html

荻原裕幸さん
http://ogihara.cocolog-nifty.com/biscuit/2005/03/2005328.html

*1:手っ取り早くは、『岩波現代短歌辞典』の「私性」の項目を参照