『渡辺のわたし』の私と『デジタルビスケット』の僕
いよいよ明日『渡辺のわたし』批評会ということで、なんだか様々な緊張が池袋WGPを指向しながら各方面から高まっている気配を勝手に感じつつ、それなりに予習しておこうと、『渡辺のわたし』を読み返して・・・・ここで唐突に荻原裕幸さんの作品を思い出す。
ぺらぺらと業界用語で喋りだすぼくなんだけど誰だこいつは
(荻原裕幸:『デジタル・ビスケット』344頁)
といった歌と、
このなかのどれかは僕であるはずとエスカレーター降りてくるどれか
(斉藤斎藤『渡辺のわたし』)
こういう歌とでは、決定的な落差があると思ったのだけど、どうだろう。
単純に言えば、上に並べた作品は、現象として世間にあらわれている自分を突き放して自覚している統覚のレベルに語り手が位置しているような、その分裂が主題化されているような作品であるという点で共通している・・・・のだけれど、引用した荻原さんの歌の場合は、一人の人としての自己同一性が前提としてあって、そこからずれた「自己像」への違和感、というか自己像のブレが主題化されている。そして作者像をそこに読み込むことができる*1。
それに対して、上に掲出した斉藤斎藤作品では、統覚的な位置にある語り手は、すでに自己同一性を前提とはしていないように思う。そのつどの私を結ぶものが、途切れてしまっているかのような。そして、読み解く上で、特定の誰かを想定する必要も、もはやない。
俺様の楕円の視野をあふれ出すしずくが世界を写してやまぬ
(『渡辺のわたし』)
これは、「俺様」という風に戯画化することで、情動の主体として成立している「なきじゃくっている俺」を突き放している感じがあって、「俺様」の自己同一性と記述を進める主体とは、あらかじめ齟齬するものとして立てられている感じがある。
文法に則って解読を進める読者の主体と記述する主体の方がむしろ一致するので、俺様という一人称の指示関係の一点において、描かれている出来事が虚構の世界に立ち上がるだけで、記述する主体は「作外主体」とでもいえるような位置にある。
ただし、荻原さんの業界用語の歌に比較的近い位置にあるような作品もある。
タカシ、って君が泣くから小一時間ぼくはタカシになってしまうよ
(『渡辺のわたし』)
たぶん、語り手が非人称的な、いわば、誰でもないもの、に傾いていく方向と、語り手ないし記述主体が作中の出来事の主体として立って来る方向との間のかなり大きな振幅のなかに『渡辺のわたし』の諸作品は位置づくのであって、そのふり幅の対極がねじれて一致することへの願望が「とあるひるね」という一連には込められていたりするのだろうか。
(2008年7月29日 mixiより転載)
*1:なんか、荻原さんの作品を引き合いに出す仕方が、引き立て役みたいにしてしまっていてあれですが、荻原さんの作品を荻原さんの文体展開の軌跡に位置付けて考える作業をしないと、あの作品固有の位置は見えてこないだろうな、ということだけは課題として注記させていただきます。