サ・カ・マ・ル・ン・ドvol. 15「野の宮」を見た

若尾伊佐子さんのソロ公演を久しぶりにみた。テルプシコール。

何もない舞台に、奥の方の暗幕をわけて現れたときの第一印象だけど、フリルのついたワンピースの衣装もあまり好きになれなかったし、中空をさぐるような表情もいささか芝居がかっているように思えて、舞台の進行に多少の不安を覚えた。

中空になにか高い伽藍でも見るように視線を漂わせながら、舞台に矩形を描くように移動したあと、舞台中央奥で正面を向く。そこから、両手を八の字を描くように、しかし、微妙に力のバランスを変えつつ、ゆっくりと、手のバランスと足を運ぶリズムが同期しながらゆれていくように、そのゆれる動きが動力になっているかのように、前に進んでいく場面は、とても良いもので、そこでは、ある種の芝居がかった表情も、それ相応の理由を体全体との交信において見出しているようで、何かの人物の境涯を思わせるように、額が険しく見えるのも、もっともであるように見えていた。その薄暗い印象がはっきりと脳裏に映っている。

けれど、そこから腰をかがめて床に座り込み倒れていくところで、すでに緊張の糸は途切れてしまい、そこからさき、舞台を転がって見せたり、頭を打ち付けてみせたりする場面は、いくつかのアイデアを並べてみせただけのように思えた。

だから、そのあと、胡坐を組むように座り込んで、ゆっくりと手でなにかをすくうような仕草、おそらく、若尾さんが最も得意としているような、空間に触れていくような動きの質感が、舞台の展開のなかに緊張関係を結べなかったのは、とても残念だ。

舞台冒頭に能の謡かなにかが音声で引用されて、そのあとは無音で進行する。能の演目を原作にしたわけではないということだけど、そこからインスパイアされるものはあったのだろう。

サ・カ・マ・ル・ン・ドシリーズのVol7を見て以来、しばらくは若尾さんのダンスはどれをみても素晴らしいと思い、都内で見られるものはほぼ欠かさずに見に行っていた*1

ところが、ある日、たしかディープラッツ神楽坂であった畳三畳の企画だったと思うけど、あれ、ちょっと作風変わったかな?と思うことがあった。そのとき、なんとなく、それまで見えていたとても透明で先鋭な輪郭、動きの端正な新鮮さが消えてしまったように思った。それ以来見ていなかった。今回の公演も、そのときの感じの延長線上にあったような気がする。

はじめて若尾さんのダンスに魅了されたときには

しかし、その運動は、身体運動を練成することによって、舞台に虚像を重ねてゆくようなものではなかった。
若尾伊佐子ソロ公演、サ・カ・マ・ル・ン・ドⅦ - 白鳥のめがね

と書いた。

上で触れた畳三畳の企画のとき若尾さんは、人物のイメージをふまえて踊っていたように思った。それは、どこかで、虚像を重ねることに堕してしまいかねない試みでもあるのだろう。それまでは、人のイメージがまといつかなかったから、魅力を感じていたのかもしれない。今回の舞台も、人のイメージが、ダンスとしての緊張を持続させなくなってしまって、ある種ただの演技のようなものになってしまった瞬間に、魅力がないように見えてしまったように思う。

だがそれも、若尾さんなりに、辿るべきプロセスなのかもしれない。その先に、人の姿が幽かにゆらめくのが、風や浪が騒ぐのとかわらないような地点があって、そこに若尾さんは到達したいのかもしれない。そうした素晴らしい舞台が、若尾さん自身が老いを自分のものとする過程で、実現されることもあるかもしれない。

そんな期待を手放さずに、若尾さんの作業を見ておきたい。

*1:とてもマイナーな次のような公演だとか東京即興許可局(X3) - 白鳥のめがね