Paxton,Deleuze, >

パクストンが来日していることにしばらく気がつかなかったので、スパイラルでの公演は見なかったのだけど、早稲田の講演を聴きに行った*1。それで、ドゥルーズの「Vice-diction」という言葉について考えた、という話です。
http://www.ddjc2009.org/#/waseda/

パクストンが60年代に来日して合気道を習ったことが、コンタクト・インプロヴィゼーションを開発することにつながったというあたりのいきさつを石井達朗さんが丁寧に聞き出していて、歴史的な話を本人から直に聞けたのは貴重だったなと思う*2

コンタクト・インプロヴィゼーション―交感する身体 (Art Edge)

コンタクト・インプロヴィゼーション―交感する身体 (Art Edge)

  • 作者: シンシア・J.ノヴァック,Synthia J. Novack,立木 アキ子,菊池淳子
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2000/05
  • メディア: 単行本
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コンンタクト・インプロヴィゼーション。これは、その名の通り人と人とのコンタクトを動きのきっかけとして即興で踊るダンスです。重力の法則に従い相手の力を自分の動きのエネルギーとする独特の手法は、ダンスの可能性を大きく広げ、とりわけパートナリングのテクニックを発展させてコンテンポラリー・ダンスの振付に新境地を拓きました。
「コンタクト・インプロヴィゼーション 交感する身体」:訳者による内容紹介*3


合気道の師範と手合わせというか、最初に師範に向かって言ったときの経験を語る言葉が生々しくも臨場感があって面白かった。

師範から、かかってこい、といわれて、自分の中に怒りというか闘志みたいなものを燃やして、よし、と師範に向かっていって、殴りかかろうとした瞬間、そのまま投げられて転がっていて、その動きは、でも自分の勢いのままに運ばれていったみたいで、気がつくと、自分の中に敵対心みたいな感情が消えていた、という風に言っていた。この体験が印象深くて、コンタクト・インプロのインスピレーションが沸いたのだ、という。

敵対的になるのではなく力を受け流して敵対性を別の形にして無害化するという合気道の発想を、攻撃に対する受けではなく、一緒に動きを生むという方向に発展させたのが、体を触れ合うことからダンスを即興する「コンタクト・インプロヴィゼーション」だったのだ、と。

ジョン・ケージ鈴木大拙の授業を受けてたとか、そういうNYでの東洋思想受容みたいな流れもあるということだけど、あくまで身体的な経験というか感覚的な出会いからコンタクト・インプロが着想されていったというのが興味深いところで、納得するものがあった。



その、「攻撃という敵対性に対抗するのではなく、受け流し、運動を肯定することで、対立を無効化する合気道の技」、という話で連想したのがドゥルーズの『差異と反復』で語られる「Vice-diction」という言葉。

「Vice-diction」は、ヘーゲル弁証法に出てくる「Contradiction」(矛盾)を批判する(というか受け流すというか)ためにドゥルーズが作った言葉で、ヘーゲル哲学の弁証法的な方法論における「Contradiction」に該当するものとして、ライプニッツ微分法的な方法論についてドゥルーズは「Vice-diction」と呼んでいる。

まあつまり、対立とか否定とかによって理念を語るヘーゲルを、微細な差異によって理念を語るライプニッツによって相対化するというか、それこそ受け流すというか、単にヘーゲル反対というわけじゃなく、ヘーゲルライプニッツを連接することで哲学史を再解釈して、近代哲学的な理念をいなして変容させて自分の哲学に包摂してしまうような感じとでも言うか・・・。

それで、敵対とか否定とかじゃなく、受け流しちゃうイメージが、Vice-dictionって感じかなあとか思った、わけです。

まあ、正・反・合とか止揚とかいうのも、単なる敵対のイメージじゃないとつっこまれそうではあり、こういう類比自体が誤りのもとという気もしないでもないのだけど、なかなか訳しずらい「Vice-diction」というものを考える材料にはなるかなと思う*4

Deleuze's use of the term 'vice-diction' as an attempt to avoid the Hegelian notion of (the dialectic as) 'contradiction' derives from the ancient Indo-European linguistic roots of 'vice' which meant 'to bend', 'to change', 'to become' (i.e., a 'vice-president' is one who *becomes* president in the case of absence) - this of course, lends further meaning to his notion of 'revolutionary becoming'...
http://zoepolitics.blogspot.com/2007/08/vice-diction-of-contra-diction.html*5


どうでもいいけど、僕もコンタクト・インプロをかじったことがあるので、そういう意味でもその創始者の話を聞けたのは感慨深かった。スパイラルの公演も一回だけで入れない人続出だったみたい。

武藤さんも

それにしてもポストモダンダンスと一口に括られている振付家/ダンサーたちの資質はそれぞれ全く違っていて、今のところぼくの思うに振付家というか作家として最も重要なのはレイナーとパクストンである。トリーシャ・ブラウンはこの点ではちょっと落ちるのだが、ダンサーとしていいのはブラウンとパクストン。
2006-12-05

なんて言ってるくらいで、久々の来日にダンス界が色めき立っている感じではあったらしい。

(追記)
吉田ゆきひこさんのレポート。
Steve Paxton’s Lecture - yukihiko yoshida’s dance writing:tokyo dance diary
(5月31日)

*1:パクストンは、モダンダンスの歴史をダンカン→デニショーン→グラハム→カニングハムと辿って自分をその系譜に置くまでで1時間くらい話してた。会場で「そんな誰でも知ってる話をパクストンから聞かなくてもいいよね」とか話している人がいたのを耳にしたけど、ジョン・ケージとの出会いの話と、いわゆるモダンダンスの伝統とが、両方とも作家的アイデンティティの基盤になっているというのは重要なことで、日本のいわゆるコンテンポラリーダンス現代舞踊協会系もそうじゃないものもどちらも含めて)においては、そういう系譜の意識が無いか、薄いか、ともかくアメリカのようにすっきりはしていない、その違いがあるということを逆に問題とするべきかもしれない。

*2:草月ホールでのカニングハムの公演にダンサーとして出ていたので、そのとき、合気道のクラスを受けたのだとか。NYに戻ってからも、道場を探して合気道の修行を続けたそうだ。

*3:「そこには、ヴェトナム反戦公民権運動などで燃えた6、70年代のアメリカの現状への批判精神と熱い理想主義が流れこんでいます。」とあるけど、そういう点については、パクストン自身はそこまで当時の社会情勢に対する「批判」を意図してはいなかったみたいな話だった。ただ、ダンスは常に何らかの意味で社会に対する「コメント」になる、というようなことは言っていた。コンタクト・インプロが広い意味で、アメリカ社会やアメリカ的な文化にある「対立」や「競争」に対するオルタナティブとしてあるということはパクストンも認めていて、それは意識しているようだった。更に、日本でコンタクト・インプロの普及に努めているグループが次:ホームページ移転のお知らせ - Yahoo!ジオシティーズ

*4:日本では、「副次的矛盾」と訳されたりしているが、これは端的に意味を成さない。Contre-direが、反することを言うという意味で矛盾(であり対話的である点で弁証法的)であるのに対して、Vice-direは、そもそも対話的でも対置的でもないので矛盾では一切ない(矛と盾という対立関係は無い)。あえて言えば、Vice-direは添えるように言う、であり、すでにある日本語になぞらえるなら、矛盾するというよりむしろ「口添え」するという方が近いかもしれない。いずれにしても「Vice-diction」は造語だけれども、矛盾の一種のような「副次的矛盾」という訳語は不便すぎて使えない

*5:「Vice-diction」と'revolutionary becoming'については、更に、次参照。『差異と反復』英訳からの引用「It is as though every Idea has two faces, which are like love and anger: love in the search for fragments, the progressive determination and linking of the ideal adjoint fields; anger in the condensation of singularities which, by dint of ideal events, defines the concentration of a ’revolutionary situation’ and causes the Idea to explode into the actual. It is in this sense that Lenin had Ideas.」http://notebookeleven.razorsmile.org/2007/07/18/the-task-of-the-revolutionary-is-violence-contrary-thoughts-on-zizek-and-badiou/