色の深さ-マティス展を見る

『絵画と現代思想』の酒井健先生が「マティス展是非見てください。たのんだよ。」とかおっしゃっていた。知人でも「良かった」と言っている人が多かったので、見に行っておこうと思った。

マティスって、「なんたら美術館展」みたいなのとかで目にする機会は多かったのだけど、今まで特別好きになったことはなかった。ポンピドーセンターでもMoMAでも見たような気がするけど、ほとんど素通りだったんじゃないか。昔、マティスの線はすごいとか言っている偉そうな先輩がいて、個人的に反発するところがあったりする事情もあったりするのかもしれない。良いと言われるのはわかるけど・・・・という感じで、最後のところで納得しないままだった。

今回の国立西洋美術館でのマティス展は、初期作品から晩年まで、彫刻も含めてマティスの全容が見渡せるような構成で、かなり充実していたのだけど、マティスの画家としてのモチーフというか、作家としての生涯を貫いていた核心のようなものに、ちょっと触れることができたように思う。マティスの良さを自分なりに納得できて、浮き立つ気持ちで会場を後にした。

マティスといえば、平面的な絵を描く画家だと思い込んでいた。それで、手足の先とか、線が消え入るようだったり、輪郭線の極まるあたりに塗り残しがあったりするのが、なんでそうでなければならないのかなんだか良くわからないと思い、それで、食わず嫌いのような感じで敬遠したままだった。
晩年の切り絵のような作品も、デザインとしては面白いかなあという程度の感想しかもっていなかった。

今回の展示では、初期の、厚く色を塗りこめたノートルダム大聖堂の絵が入り口近くに置かれていて、その滲むような、濁りをおびた、写実的ではない、しかしつやのある色彩のコントラストに魅了されていた。その感覚が忘れがたく、他の画面を見ていても、壺の質感を重々しくあらわす絵の具の塗りこめられた様子などに注意が向かった。そうしてみると、他のよりフラットで薄い色面と簡素な描線で構成されたような絵画にも、ところどころ、陰影を施す濃い色彩が共存していたりする様子が目だってきた。

地下に下った展示室には、鏡を背後においた裸婦を描く初期の作品もあって、重くくすんだ色調が室内の空間と裸婦の身体の起伏を確固としたしかたで構築していた。素直に入ることの出来る、視野の広がる空間。そこから抽象されたものが、後のより平面的な画面にもつながっているのではないかと思えてきた。

同じ展示室にある、海岸近くのアトリエを描いた作品にも注意が向かう。縦長のガラス戸の向こうに海が広がっている、モダンな室内空間。ガラスの向こうの広がりと、その手前の閉じた空間とがしっかりと画面に定着されている。

色彩の陰影、その深みのようなものは、画面の奥行きをあらわす「色彩によるデッサン」ともいえる。フラットな画面にも、奥行きは消え去っているわけではない。木炭デッサンにおける、形態の確かな把握や、彫刻作品での量感豊かな表現を見るにつけ、絵画作品の造形的な堅固さ、奥行きのようなものの確かさがよりくっきりと見えるようになり、そうなると、マティスの画面への手がかりがつかめたように思えた。

晩年の切り絵の作品になってしまうと、まったくの平面に植物的な形態や鳥の姿がグラフィカルに配置されることになって、そこで奥行きということを語るのは、まったく筋違いなのかもしれない、と思いながら、奥行きの感覚を手放せずに考えあぐねつつ見ていた。

白い図形となった鳥が輪を描いて飛んでいる。図柄にまで還元されても、そこには空間の広がりがある。奥行きを平面へと還元する技法の果てに、空間を平面にまで折りたたんでしまう画面が現れるということなのだろうか。