大岡淳演出「コンベヤーは止まらない」をめぐって(1)

先日、大岡さんからエウテルペMLに公演の宣伝があった。
http://groups.yahoo.co.jp/group/euterpe-ts/message/393
桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻2年B試演会ということ。

私は、12月11日(土)のAプロ(15:00開演)の回を見てきた。
その公演について、書きはじめてはみたけれど、なかなかうまく書き進められないままでいる。
まあ、こういう「日記」ページなので、書けた所から掲載してしまおうかと思う。

さて、大岡さんの作品については、かつて書いた文章を次のページに抄録していた・・・
http://www.medianetjapan.com/2/20/drama_art/yanoz/review/theater/ooka/20th.html
これを書いているときには、何のメモもなく、チラシくらいの資料しか無い状況で書き上げた。そのころはまだ記憶力がよく働いてくれたのだな。今では、そんな芸当はできない。

私は、大岡さんの作品は、彼がまだ大学生だったころから、見続けてきた。見逃したのは数本だと思う。というわけで、大岡さんが自分の頁で「常連さん」って書いているときには、その一人に入っているはずだ。

それはともかく、http://d.hatena.ne.jp/ooka/20041123 には、大岡さんの演出意図が語られている。

新劇的な演出手法を意図的に脱却してこの芝居を作りたいと考えているのだが、どこまでうまくできているか自信がない。

ということなんだけど、少なくとも、演技のレベルで考える限りは、とてもオーソドックスな芝居がなされていたように思う。

私は、「コンベヤーは止まらない」という戯曲を、それ自体として読んだことは無い。だが、舞台から窺うかぎり、「資本制の批判」という大きなテーマが込められた戯曲であるのは間違いないとしても、「資本制の批判」を背景にした群像劇として、心理や人間関係の機微を描くドラマとして上演することもできる作品なのだとおもう。

私は、ブレヒトのことはそれほど知らないけれど、「資本制の批判」というテーマについて思考を促すことが上演の目的ならば、ドラマの登場人物に感情移入をうながす類の演技様式はむしろ排除されるべきものとなるのかもしれない。感情に流されてしまっては、問題の構図を冷静に考える姿勢は失われてしまうというわけだ。

http://groups.yahoo.co.jp/group/euterpe-ts/message/398

にも若干の感想を既に書いたけれども、件の戯曲は、それ自体として、出演する側の学生が細かな心理描写をしたかったり、感情移入した演技をしたかったりしたとすれば、その演技の欲求は十分満たされるような戯曲であるともいえる。

大岡さんは、再現的に臨場感をかもし出そうとする演技を排除しようとはしなかったのだろう。そこは、各学生の主体性にゆだねた部分もあるのだと思うし、教育の場としてそういう姿勢は当然のことだと思う。あるいは、戯曲の性格上、再現的な演技になじむものだったと言えるのかもしれない。ともかく、役者としての自己実現は、内容とは関わり無く遂げられてしまうかもしれない上演だったとは言えるだろう。

当日配られたパンフレットにも、大岡さんは、いまどきの若者が演劇なんかでかりそめの「自己実現」感を得てしまうことを批判的に語りながら、本来は、演劇より前に、アルバイトの条件を改善するストライキこそ、今の若者がすべきことなのだ、といったことを書かれていた。

もちろん大岡さんは、フリーターの若者によるストライキなど実現しはしない現状を直視している。その上でなお「もっとも必要なことが、なぜありえないことになってしまっているのか、それを考えるヒントとしてこの芝居を楽しんでもらえれば幸いである。」とパンフレットで語りかけている。

これは、観客に対するメッセージである以上に、役者である学生たちへのメッセージでもあるのだろう。これは皮肉なメッセージでもある。当該の上演自体が、今当然すべきことそのものでは無い、あるいは、上演されている内容自体が、上演する行為そのものを批判するものかもしれない、と言っていることになるわけだから。

冒頭、開演時間前に演出家の大岡さんが舞台に登場。学生たちが舞台を囲む席につく。そこで授業開始であるかのような点呼がはじまる。そして、「演劇は労働か?」というテーマでの討論がはじまる。

本番を控えた学生たちは、思い思いに、演劇を労働といえるのかどうか意見を述べてゆく。労賃がもらえたら労働だ、いや、だとしたら主婦はどうなるの?結局、「労働」って言葉をどう考えるか、人それぞれで変わってくるよ。いや、そんなふうに考えてしまっては問題が見えなくなる・・・云々。大岡さんは、時折控えめにコメントをはさみながら、司会に徹しようとしている。

この討論が、あらかじめ筋書きがあるものだったのか、どこまで演出されていたものなのかは、わからない。また、普段の授業のありかたをどれだけ再現しているのかもわからない。だが、引き続く上演に対して、この「寸劇」は、様々な仕方で注釈を加える導入となっている。

上演作品のテーマについて注意を喚起しつつ、上演が教育の一環としてなされていることの説明にもなっており、演出家が普段は講義をおこなう先生であったことも示されているわけだ。

パンフレットにもあったように、大岡さんは、件の戯曲の「資本制の批判」という側面を浮かび上がらせたかっただろうが、学生のすべてがその意図を納得して演じたのではないかもしれない。学校主催の試演会ということで、演出家にしても出演する学生にしても、不本意なことがいろいろあったというのもありそうな話だ。そして、演出家が教師であり、役者は学生であるというある種の緊張関係が、そのまま舞台化されていたとも言えるのかもしれない。

しかし、教育の場での上演という営為の中にあったのは、単なる妥協と言うべきものではなく、その両義的緊張そのものを積極的に評価すべき事柄だったのだと思う。そのあたりの事情について、もうすこし作品のディテールを語りながら、考えてみたい。

ひとつひっかかっているのは、「コンベヤーは止まらない」では、党派の問題が避けられているということだ。「もっとも必要なことが、なぜありえないことになってしまっているのか」について考える上では、そこが一番重要なポイントなのかも知れない。