フランケンズ『スピードの中身』

次の公演を公園に見に行った。

中野成樹+フランケンズ2010新作公演
『スピードの中身』
2010年3月20日(土)〜3月21日(日・祝)
会場 所沢航空発祥記念館
PR・解説 堅苦しいイメージの海外戯曲を、原作に敬意を払いつつ、今の我々の物語に仕上げる『誤意訳』なる手法で注目を集める中野成樹。今回はブレヒトの教育劇に挑みます。誤意訳は若手注目作家の石神夏希に任せ、中野は演出に専念します。
さらに、新メンバー加入後初の本公演!上演場所はなんと飛行機の博物館!!ナカフラを知ってる人も知らない人も楽しめる公演となっております。
http://www.theaterguide.co.jp/search_result/paid/detail.php?id=15592

公演が始まる前に、会場がある航空記念公園をひとまわり見て回った。予約したら、早めに行ってピクニックとかしたらいいよって書いてあったので、春めいた一日公園を見て回ってみようと思った。冒険遊び場には親子連れがあふれていて、その辺の土手で男の子たちが坂を転がる遊びをしていたりして、散歩中の犬が紐に引きずられていたりとか、ピースフル。
所沢航空記念公園 公式ホームページ

日本で初めての、飛行機事故で亡くなった人の碑があった。大正時代に陸軍で初めて飛行機を飛ばしてた頃に、強風に煽られて死んじゃった人たちが、これから軍備を拡張するぞって勢いで顕彰されてた、銅像込みの石碑の類が、墜落地点から移転に移転を重ねて、陸軍の航空部隊にゆかりのあるこの公園に最後は落ち着いたということらしく、そういうものものしい歴史にふさわしからぬファンシーな白塗りの鉄の門がついているのがなんだかいきさつはよくわからないが戦後的風景だった。

そして博物館を見て回った。自衛隊で使われていたヘリコプターや訓練機だとか、展示してある、でっかいかまぼこみたいな形の、なにかテントのようながらんとした建物。博物館の閉館のあと、開演という流れで、あらかじめ博物館に入場していないといけないのだった。飛行機事故で死んじゃう飛行士の話だから、いろいろと航空機の歴史の実際の遺物と、物語内容とが重なり合う演出で、入場券も飛行機に搭乗するときの手荷物とかのタグを模したものになっていて、航空会社みたく「NKF」の三文字が赤くあしらわれていた。この博物館の案内スタッフもフライトアテンダント風の衣装だったしね。

http://tam-web.jsf.or.jp/contx/

舞台スペースは、そんな展示されている航空機の類が背景に見えるような場所に仮設の会議場がしつらえられている風で、テーブルが横に並べられていて、それを半楕円形に客席が取り囲んでいた。博物館の大きな窓からは、だんだんと日が暮れていく公園と、その向こうの所沢の空が見えている。

客入れ中に、最後の調整と言って、リハーサルが演じられていたりする。博物館の入り口にいったん集合させられた観客が会場に案内されるときに、スタッフから「俳優たちが最後の調整をしてますがご容赦ください」とか言っている。演出家があれこれ俳優にダメだししていたりする小声のリハーサルが、いかにも差し迫った本番に間に合わせようとあせっている現場風であって、それがこの後に見るはずの本番をあらかじめ抜粋して示してしまっている。その内容が、差し迫った会議の本番前にあわてて準備をしているという内容である。

というか、そういうところが「ブレヒト的ですよね」ってそのあとのいかにも芝居がかった開演のあいさつのところで俳優によってコメントされたりする。

まあだから、再演されるかもしれないこの作品についてこれから思い出す限り内容を記述するのだけど、それを「ネタバレ」とか言うのは、お門違いもはなはだしいというわけで。

フランケンズでは、海外戯曲をあえて裏切ることによって逆に忠実であろうとするみたいな翻案の仕方を「誤意訳」と読んでいるわけだけど、石神夏希による誤意訳がブレヒトの原作を改変した脚本として仕上げられて、それを中野さんがさらに多少手直しして上演台本になったということらしい。

ところで、原作になっているブレヒトの教育劇というのは、そもそもは上演を目的にしたものではなくて、労働者のサークルとかでお互いに演じてみたりして、何か問題について考えてみるきっかけを与えるようなそういう目的で書かれた寸劇みたいなもので、当然、マルクス主義的な前衛党による革命を目指して、人類が明るい未来を実現するために人々を教育するんだって意図で書かれているものだった。

それを現代風の上演作品に改変するにあたって、石神夏希さんは、航空会社の事件処理会議みたいな場面を設定してみせたって感じだ。飛行士とか整備士とか、負け組っぽい現場スタッフと、勝ち組っぽい経営とかマネジメントとかやってる人たちが二手に分かれて、テーブルについて会議を進行するって形で話が進んでいく。

会議の内容は、大西洋横断を試みて事故死しちゃった飛行士を助けるべきだったのかどうか話し合うというもので、それを事故した飛行士が出てきて話したりするあたりがどう考えても現代劇じゃないわけだけど、会議の雰囲気としては、タイトな時間のなかで結論をださなきゃいけない企業の会議劇みたいな感じになっている。

仕切りなれたマネージャーっぽい女性とか、お追従が上手なスタッフとか、プロデューサー的に力もってるえらいおじさん風の登場人物とか、いちいち、それっぽい。会議では怒鳴って見せて、休憩時間に「君の気持ちもわかるよ」とか懐柔してみせたりするような上司ぶりとかもありそうな風だ。

その手の、会議風景は、多少コミカルに若干誇張されながら、まあわりとお芝居として演じられている感じ。軽妙なスタイル。

大きなポストイットで会議の進行とか要約とか示されたりとか、整備士役のひとがいかにも会社の社員章パスのプラスチックカードみたいに首からぶらさげてるのがツタヤのTカードだったりするあたりの諧謔もポップだ。

会議にはチロルチョコレートの準備が必須だとかあわてたあげく結局チョコは使わなかったね、みたいな小ネタの落ちとか、小道具的にも、身近さを感じさせながら、みんな消費社会の中に居るよねって確認にもなっている*1

飛行機事故の統計だとか、パンの値段とか飢えている人々の統計だとかが示されて、飛行士をひとり救うことに大金を投じても、それがどれだけ社会にとって有益でしょうか?みたいに強引に問われて、人類規模の観点から「それって必要なんですか?」みたいに疑問に投げ入れられていく感じは、まるで「一番であることに意味があるんですか?」みたいにざっくり問い詰めて問題を切り捨てていく、なんとなくぱっとみはそれが効率良い風な様子を見せびらかせてみせる「仕分け」会場のやりとりみたいだ。

会議にはゴールが必要ね、それを忘れないためにキャラクターを作ってみましたとか言ってマネージャー風の女性が「ゴールくん」って名前のぬいぐるみを置いたりする。ゆるキャラとか言って感情労働を煽るような仕方で創造性が搾取される当世の生きかたを風刺してるみたいな、「クリエイティブ」な人たちを俗物として誇張する、どこかキッチュでもある描写は露悪的だった、

飛行士が、僕は空を飛びたいんです、それしか僕たちには無いんだ、それを認めてほしい、みたいに言うのは、まるで僕たちは演劇をやりたいんだ、って言っている姿みたいな感じでもあって、飛行士や整備士たちが、社会的に成功してる風な人たちに引け目を感じながら最後には飛行士を助けなくて良いと言う結論に説得されていく感じっていうのは、まるで社会から「演劇?何の役に立つんですか?」といわれてる役者さんたちの等身大の姿って感じでもあった。

だから、前半の会議がおわってさっそうと勝ち組の皆さんが退場したところで整備士役の俳優のセリフが「あの人たちのクリエイティビティ半端ねえな!」だったあたりは皮肉もマックスで大笑いだった。

そんな、できそうな人たちと、見下される人たちの対比には、「二極化」みたいな話も絡んでいるんだろう。そういう身近ででも切実なお話と、実際に世界では飢えているひとがいっぱいいるのに、演劇とかやってる場合なの?みたいな、常にそこにある問題が重ねあわされているってところで、やっぱりこれは、社会問題を考える教育的な劇ではあったのかなと思う。

それを単純に解釈すれば、いろいろ切羽詰まった状況で、力も足りないし余裕も無いけど、でも、難問を難問としてきちんと真正面から引き受けることはできないのか?みたいな問いを問いとして舞台に造形してみせたものだったのだと思う。

あなたはもう死んでいいといわれて飛行士は拒否するんだけど、会議中、他のスタッフが、あなたはもう死んでいいよ、といわれてはい死にますといって死んじゃうという展開もある。喜劇的な軽妙さが不条理に示されるってあたりも、まあ、20世紀の演劇で良くある手法だったとは言えて、そんな仕方で、性急な「仕分け」的で、新自由主義にサバイブしましょう的なドライさが風刺されているといったところ。それで途中うつぶせて死んだままになってた人があっさり会議終わったら生き返ってくる終幕だとか、死ぬことも仕事することも一緒みたいな感じで、それはそれで月並みな手法だとしても描かれていることは考えていくとなかなか厳しく生権力とかって言葉で語られるような生き死にもすべて数値的に管理されていて市場化されてもいるみたいな行政と市場がのっぺり現実をおおい尽くしてるみたいな現在的な問題に触れている舞台形象として解釈できることだったと思う。

それが、後半、飛行機事故が恋愛遍歴に、生き死にが恋愛の成就になぞらえられて、前半の会議をパロディにしたみたいな展開になる。これは、人類はそもそも利己的な存在でしかないのではないか?とか、そうした見方を押し付けてきて、生き残るためにどうする?みたいに強迫してくる社会のあり方ってどうなの?みたいなわりとまじめな問いを中心に舞台が展開していて、飛行士の高く飛びたいみたいなロマンティシズムと人類の未来みたいなわりと壮大な話がドラマ的な図式をなしてた前半が、彼女にフラれたらそれが同僚と結婚するってことで、そんな話聞いてもあきらめきれないよってうじうじする飛行士はすっぱりあきらめるべきかみたいな議題になっているので、前半でわりと深刻な問いに直面した観客は肩透かしをくらうみたいだった。
最後は、新しい女の子が好意を寄せてくれてるみたいなんだけど、一線越えちゃっていいかどうかは、コイントスで決めるという終幕。このコイントスっていうのが、前半では「結論はコイントスで決めてもいいんだぜ、どうするんだよお前らぐじぐじしてる場合じゃ無いんだ!」ってプロデューサー的に権力とかお金とか握ってるおじさんが負け組みの人たちを恫喝する道具になってたので、この終幕をどう考えるかってそれはそれであれこれ解釈のし甲斐のあるディテールではある*2

こういう前半と後半の対比が、世界とか人類とかの大問題と、恋愛みたいな卑近なことを短絡するっていうのは、それこそセカイ系的なフィクションでは良くある話で、でもそういう仕方でこそ示される今の条件っていうものはあるんだろう。

世界大の問題と卑近な人生の悩みや選択が、でもショートカットされちゃうこと、そこで何か肩透かしをあうように感じてしまう感受性のあり方そのもの、そこでそれぞれの問題を問題として重く感じたり軽く感じたりしてしまうようなものの見方自体、フィクションなんじゃないの?だって、生きかたを考える上で、恋愛感情とか、大事にしたいものだし、そういう気持ちをないがしろにするような社会には住みたくないじゃないか?でもそれってほんとのところどこまで大事なものなんだろう?みたいなぐるぐるめぐる問いのなかに、世界大の問題と卑近で切実な問題をもう一度据えなおすことで、前半のアポリアは、更に難問としての度を増しているようでもあるし、難問を前にして思い悩んでみせることも何の役にも立たない自己憐憫的な所作でもあって、どんな難問にだって、身近なことのように向き合うのが難問への正しい向き合い方なんじゃないか、とか、そんなことを後半の展開から考えたっていいので、とりあえず僕は、世界大の問題を冷静に考えることは、問題を重荷みたいに押し付けることとは違うし、脅迫みたいに性急な決断を不可避なこととして大げさに示すことと、予測不可能な未来に怖気ずに進んで行く事は、どっちも常にこんぐらかりながらも別のことだよねって言えるそういう視点を示してくれる舞台造形だったんじゃないかって思った。

会場が劇場じゃなかったので、残響がすごくて、大声出すと2,3秒待たないと静まらない感じだった。劇場という場所がどれだけ環境を整えられているかを逆に実感させられるのだけど、セリフが響き続ける空間が歴史を蔵した場所でもあって、その残響の物質的な条件が、どこかで歴史とつながる感じが、見ていてとても忘れがたい感慨をのこす舞台造形だったなと思う。

ところで中野さんはブログにこんなこと書いていて、あっさりと大胆に大事なことを言っている。わりと努力した価値が相応に認めてもらえそうな「身体の現前する強さ」みたいな場所には安住してないわけだ。これはそれこそ挑発的で、この考え方についていけない観客とかも多いだろうけど、軽妙な風をしてかなりチャレンジングだと思う。

今回は久々に(?)スカッと了解できる作品を
創れた気がしていて、三渓園の初日前に
「最高傑作が創れたと思う!」と宣言したほど。
役者は座り芝居が多くてストレスたまるみたいで
「……はあ……そうっすか……」って感じでしたが(笑)

まあ今回は確かに
身体を無視して言葉のロジックだけ、の芝居だったから、
それを「最高傑作!」とか言われてもねえっ、て話か。
でも、個人的には「いま、身体を無視してやったぜ!」って気持ちで、
そこがなんだろう、もう無茶苦茶に好きだ。
身体身体うるせーから、昨今。ってほどでもないかもだけど。
でもきっと身体、無視していくだろうな、今後も。
http://frankens.jugem.jp/?eid=1594

あと語意訳担当の石神さんはこんなこと書いてた。

ブレヒトの原作を読んだとき思ったのは、「悲壮な覚悟でボケつづける道化のようだ」ということで
それはまさに「ツッコませる」(批評させる)ということなのだけれど、
誤意訳というのも、「誤」と断っている以上、ある種の「ボケ」だと、私は思っています。
だから「ブレヒト」を「誤意訳」するのは、ボケにツッコむんだけど、そのツッコミもまたボケている、
という状況に似ていると思います。
だから、ブレヒトをやっているというより、どこまでも誤ブレヒトをやっているということにしかならない。
だけど誤ブレヒトであること自体が、すごくブレヒト的なんだと思う。

その「ボケ」は、ものすごく真摯で本気な「ボケ」なんだけれど。
というか、どんな「本気」もそんな風にしか、他人を当事者には出来ないのかもしれないな。
誤ブレヒト/スピードの中身・その2 - ペピンブログ

*1:そういえば、飛行機事故と風というイメージが、世の中の空気の向きみたいな話と重ねあわされていたのも、世相という面からは興味深いポイントだったかもしれない

*2:たとえば、熟慮の上での決定にこだわるよりも、偶然にまかせるような一見したところの浅はかさに身を投げ出すことに逆に自由があるのかもしれないみたいな話をあれこれ考え込んでみる余地はいくらでもある

「増山士郎作品集 2004〜2010」@現代美術製作所

何の前情報もなしで見に行ったけど、いろいろ社会との関わりかたをコンセプチュアルというかドキュメンタリー的にというか、切り取った作品だった。

まるで風俗店の看板みたいな「恥ずかしい姿見放題」という立方体のピンクの看板があって、のぞき窓があって、そこをのぞくと、のぞいている人の顔がモニターに映る。それを街頭に設置した様子がビデオで映し出される、とか。小包の中にビデオカメラを仕込んで、宅急便で送る間、その様子を全部録画するという作品では、実際に録画された画像と、送られた木製の箱が展示されていたりとか。アーティストインレジデンスで海外にいることが多い作家が、日本に一時帰国する間に、夜間のアルバイトを探す様子のビデオや関連する書類の実物と、それで見つけた某宅急便会社の住み込みの寮みたいな場所を再現した一室を展示した作品だとか。

こういうサバイバルをしているアーティストもいるんだなあという感慨。まさにサバイブ系社会派アートって感じだった。

渋谷友香理展@スタジオ・シェッラハル

http://www.lazur.jp/siellaharun.htm
泰货网

ほんの少しの光が、隙間からもれたり、木箱のオブジェのような手作りらしい照明器具からもれていて、ほとんど真っ暗な部屋の中に入るときには「目が慣れるまで時間かかりますよ」といわれる。部屋をうろうろすると、何か糸でぶらさがっているものがあるのに気がつく。だんだん瞳孔が暗闇に慣れてくると、うすぼんやりした部屋のなかに、いくつもの小さな人型がつるされているのがわかってくる。それは、厚紙か何かを同じ形に切り抜いたもので、なにかアイコンみたいに定形化された人の形で、腕や足は模式的に出っ張りや凹みとして示されているだけで、頭はとがった三角形でその頂点が紐で天井につながっているらしかった。歩くと、影が人形たちの見え方を変える。暖房の気流や、鑑賞者の動きに応じて、モビールのように、ぶらさがった人型がゆらゆらと向きを変えたりして、人の形が見えたり見えなかったりする。とてもシンプルなアイデアだけど、緻密に構成された空間は、とても見ごたえのあるもので、視覚の縁で作品の肌理に触れ合うどこかスムーズな感触が暗い透明な実質みたいなものとして胸に残った。

『橘館』で『ユリ 愛するについて』

『橘館』で見ました。
コミュニティシネマ『橘館』ブログ 私も作品紹介2『ユリ 愛するについて』

アート系のプライヴェートなドキュメンタリーとして、手法としては飛びぬけているというわけでもないかもしれないけれど、ゆるやかに時系列を追いながら、説明的になりすぎないように、様々なショットを重ねていく感じは、繰り返される一時的な出会いと別れの間に、決定的な出会いと別れが重ねあわされるような、記憶の重層する姿を造形しているみたいでもあり、監督自身が友人の人生の決定的な出来事をそばに立ち会うようにして記録することで、単なる記録でもなく、単なる作品でもない、ひとつのパフォーマンスとして、監督自身の関与を感じさせもして、カメラの手前に出演者から呼びかける声の向きが、観客の側にも響くようであって、そうしたプライベートな空間の記憶や身体性を刻み込んだ映像作品なので、こういう小さな映画館で、町の音も聞こえるような場所で見られたのは、逆に良かったかな、と思う。液晶プロジェクターはお世辞にも良い画質ではなかったし、スクリーンも白い布を張った手作りなもので、学園祭の上映会を思い出す雰囲気ではあったけど、それが雰囲気としては、ぴったりと合うものだったと思って、帰った。

「メイエルホリドとわたしたち ―映画『白鷲』を見ながら」

早稲田の演劇博物館でやってたメイエルホリド展の関連企画に出かけた。ついでに展示も見て演博で調べものしようかなと思ってたけど、結局講座だけ参加して帰った日*1

関連演劇講座

「メイエルホリドとわたしたち ―映画『白鷲』を見ながら」
第一部 メイエルホリド出演映画『白鷲』上映(プロタザーノフ監督、1928年、無声映画、字幕つき、67分)
第二部 ディスカッション「メイエルホリドと同時代〜現代の先端的芸術」
鴻英良(演劇批評家)×塚原史早稲田大学教授)×豊島重之(モレキュラーシアター演出家・ICANOFキュレーター)

日時:2010年3月12日(金)15:00〜18:00(14:30開場)
会場:早稲田大学小野記念講堂(27号館小野梓記念館地下2階:定員200名)

映画は、サイレントなのだけど、特に音楽も無しでの上映だったので、ちょっと辛かった。革命前のロシアを描いたドラマ。特権階級の役人とデモをする労働者たちを対比していくストーリーで、デモの弾圧のために子どもが殺されてしまって、それを褒められる高官の妻が、耐え切れずに夫を殺そうとして未遂に終わったりといった場面のあと、スパイに使われてた労働者が仲間にスパイ行為がバレて権力者に助けを求めるけど冷たくあしらわれて逆恨みして高官を殺しちゃうみたいなストーリー。皇帝とか帝国の官僚とかを豪華に描くセットも贅を尽くしたもので、平行モンタージュとかでドラマチックに盛り上げるあたり劇映画としては現代と地続きな感じ。メイエルホリドのこと勉強不足で誰がメイエルホリドかわからないという不始末。

鴻さんとか豊島さんとかは何度か講演なりを聴いたことがあるが、塚原さんは初めて。それで、メイエルホリドはほとんどでなくて、アヴァンギャルド史の話ばっかりしてたけど面白かったので塚原さんの本は読んでみようと思った。アヴァンギャルドという用語の初出は、サンシモン派社会学者のRodriguesが1825年に書いた手紙だか論文だかの文書なんだって。この辺り専門家でも誤認してることがあると塚原さんは指摘しつつ、それが現在確認されてる初出だって言ってた。そうなのか。

塚原さんは、ベンヤミンが死んだ背景に、ソ連のスパイであるコジェーブの関与があったのではないか?間接的に、死ぬしかないように手を回してたのではないか?みたいな陰謀説を主張していて、資料が出てこなければ仮定の話だが、大いにありえるみたいな話しぶりだった。鴻さんもそれに乗っかって、「ヘーゲルの『精神現象学』の講義でコジェーブが歴史の終わりを説いたのは、ソ連のエージェントとしてイデオロギー的に西側の崩壊を促進しようとしたのではないか?」みたいなこと言っていて、このおじさんたちは大丈夫だろうか?と思ったものだ。

映画とメイエルホリドの関わりについては、映画のラストで描かれる舞踏会の場面が、メイエルホリドがやってた舞台と照応してるんじゃないか的な話をしていて面白い観点ではあったけど、それも推測にすぎない指摘だったので、まあ世間話と変わらないレベルのお話ではあった。

豊島さんは、いつもの調子でうねうねと話していて、話の途中で帰る聴衆が何人か居た。対独勝利の記念とかでスターリンの肖像がモスクワに掲げられるってニュースに触れながら、旧ソ連の秘密警察は帝政ロシアの秘密警察を引き継いでいて、みたいな政治裏話的なことを、そこに思想の問題があるんだって口ぶりで話していて相変わらずだなあと思う。昔、絶対演劇派とか名乗っていた頃の「コロック」(つまりシンポジウムというかアフタートーク的座談会というか)で話しているのを何度か聞いたものだけど、その頃は「この胡散臭い山師的な語り口は何なんだ」と思っていたものだけど、最近ではなんとなくこの人の持ち芸だよなあと思ってそれはそれで楽しんで聞いているけど、結局何を言いたかったのかは良くわからない。語られるディテールにあまり意味はなく、その配置にもあまり意味はないのかもしれない。ただ、いろんな思想用語も政治的な事柄も弄んでいるような手つきに、豊島さん独特の手触りのようなものはあるのだろうなあ、とか、思わないでもない。

豊島さんがどういう人かを語るエピソードを最近読んでた本から拾っておく。文庫になったのも10年ばかり前のちょっと古い本だけど、今読むといろいろまた味わい深い。

ロトランジェ (略)今回の来日は八戸でのカフカ・コロックに参加するためのものだったのですが。

浅田 僕は参加できなくて残念でした。主催者の豊島重之に高橋悠治を紹介して、彼がカフカによる作品を演奏したはずだけれど。
「歴史の終わり」を超えて (中公文庫)

チェルフィッチュ『私たちは無傷な別人であるのか』についての私見

3月22日、演劇サイトPULL(http://pull-top.jp/)でのライブトーク*1チェルフィッチュ『私たちは無傷な別人であるのか』を取り上げる予定なのだけど、その前に自分の今の時点の感想を簡単にまとめておきたい。

主な登場人物

『私たちは無傷な別人であるのか』の主要な登場人物は、新築タワーマンションに引っ越す予定の、わりと富裕な層に属するといえる子どものいない若い夫婦、そしてその夫婦の家に遊びに行く妻の同僚の女子社員の三人で、そこに周縁的にあらわれる人物たちが何人かいて、その中で役者との対応が与えられる人物が二人いる。ひとりは、建築中のマンションの様子を見に行った夫がバスに乗るときに列に並んでいた男で、この男に夫は無性に苛立つという独白がある。人物と役者の対応は厳密には一致しないのだけど、赤い服を着ていた男優がなんとなくバス停にいた男に対応するようになっていた。
もうひとりは、夫の帰りを待つ妻の居るマンションに訪ねてきてドアのベルを鳴らして、ドアフォン越しに「私はあなたたちのように幸せじゃないんですよ」と語りかける人物で、これは山縣太一がこの人物の声や姿を演じてみせる。この実在しないと言及される人物は、作品の終盤では、マンションの夫婦に対するコメントをする山縣太一のセリフに人物像として響かざるを得ない構成になっていたと言える。

フィクション性

今回の『私たちは無傷な別人であるのか』は、いままでのチェルフィッチュの上演台本(そして事後的に発表された戯曲)とは、文体を大きく変えていて、そこもいろいろと注目されるところだ。

それについては、既に作家自身が新聞社の取材に答えて、小説を書いたことの影響があると明言しているし*2、いろいろな論者がその点に触れた評価を試みている*3

いままでなら「これからマンションってのを始めます」みたいな風に、ショートコントでも始めるみたいなことを役者が言ったりとか「でぇ、この●●さんっていうのわぁ、ここにいるこの人とは別人なんですけどぉ」みたいに語り手としてのアイデンティティを役者が主張したりすることで、語られるフィクションと舞台上で起きていることの間の区別をある種メタフィクション的に強調するような手法が用いられてきた。

そういう、口語体の饒舌さが、今回では控えられていて、わりと簡潔な、シンプルな文体が採用されていて、言葉の上での彫琢っていうよりもそぎ落としによって成り立ったみたいな文体上のシンプルさに対応するみたいに、身振りの方も、今までの多動的というか、落ち着かずに動き続けるような身振りは控えられて、なにか一つのポーズを示したり、同じ動作を反復したり、ポーズからポーズへの移行が丁寧に示されたりするようなものになっていた。

そういういままでの文体から、今回は大きく変わったのだけど、フィクションに対する向き合い方と言う面では同じなのではないか、というのが私の判断だ。

言葉の面で言えば、今回の上演台本では「男が立っています、幸せな男でした」といったような、語りの文体が採用されているのだけど、これは、「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました」というような、昔話の定型表現に似通った文体だ。つまり、文体自体に、語りをフィクションとして開く定型が織り込まれている。その点では、今までショートコント的な仕方の「フィクションが始まることを示す指標」が舞台作品に引用されていたのと同様に、説話的な「フィクションが始まることを示す指標」が引用されている。

では、今回の上演の終わり方はどうだろうか?そこにも、ある種の、類型化したフィクションの閉じ方があったと思う。それは、「舞台でこういうことが描かれましたが、みなさんはどう思いますか?」と問いかけるような作法だ。そのことをどう考えるかということについては、いろいろな立場がありえるだろう。作品自体が、そのような様々な立場取りを促すことを意図していたかもしれない。その点に関わる問いを、ひとつの課題として残しておきたい。

それと他者性

劇中では、実在しないとされている、まるで非正規雇用によって将来を奪われたワーキングプアの代表のような若い男の姿や、その男の姿から発せられる、幸せについての、あるいは不平等についての問いは、その話者の姿ごと、劇中ではある種の妄想として片付けられて、実在しない語り手、問い手の位置に置かれる。だから、その問いかけ方があまりに抽象的で、そこにあまりリアリティの無いものだったと感じられたとしても、作品としてはあらかじめそのリアリティの無さこそ目指されたものだったと指摘するべきところかもしれない。

この、まるで不幸の代弁者のような話者の像が、あらかじめ虚像とされている作法は、たとえば『三月の5日間』の終わりあたりで、渋谷から去ろうとしてもう一度円山町あたりに戻ってきた女子が、路上生活者の行為を野良犬の振る舞いに見間違えたことに動揺して吐き気をおぼえるという場面で示されたイメージの変奏であるように思える。いわば、目の前にありながら、その姿を認めることができない他者だ*4

この作品では、虚像として描くことで、逆に、その他者を見出せないことが示されている。作品がイメージで塗りつぶしてしまい、それが塗りつぶされたイメージに過ぎないことを明示することで、その背後にある提示されなかった現実を示唆してみせる作法だと言うこともできるだろうか。

その点について、もう一度、朝日新聞による取材記事を振り返ってみる。引用されているのは、記者の問いかけに答える岡田利規の言葉である。

今回の主人公は、経済的に余裕ある「勝ち組」の立場にいる。そして「世の中に対して恨みやネガティブな感情を抱いていない人物」である。

 「そういう人がいることは、僕にとって想像しがたいことなんです。自分が理解できないという、そこを書こうとしている」
asahi.com(朝日新聞社):劇団チェルフィッチュ 作風一変、「勝ち組」描く - 演劇 - 舞台

つまり、理解できない他者であり、「そんなことは実際には無かった」「実在しない人物」という意味では、劇中の不幸の代弁者のような若者も、タワーマンションに引っ越そうとする若い富裕層の夫婦も、同じなのではないか。

つまり、わりと細かく描写される若い夫婦のイメージもまた、想像したり共感したりできない他者の像を、表象によって糊塗してしまっているという点では、同じなのだ。そう考える。

浮浪者を犬に錯覚してしまったときの、浮浪者が人間として見えてこないことへの嫌悪感、罪悪感、そうしたものが、今回の新作では全面化していて、登場する人物像のすべて、語る位置の全てが、表象しえない他者の言葉を、表象で埋め尽くすような仕方で、舞台の外に現実を立たせるようなものになっていたのではないか、と思う。

だからこそ、語りの文体や、仕草の提示は、冷徹に様式化されたよそよそしいものでなければならなかったのではないか。

つまり、他者性を上書きして舞台から消し去ることによって他者性を示すような作法が、他者性の排除による強調になっている、そういう意図そのものが、この作品の演技の文体とセリフの文体を要請したのだ。というのが、この作品についての、私の判断だった。

(2010年3月20日記す)

*1:中継は次のアドレスで、3月22日午前11時からの予定:PULL@LIVE on UST

*2:次の記事を参照: asahi.com(朝日新聞社):劇団チェルフィッチュ 作風一変、「勝ち組」描く - 演劇 - 舞台

*3:たとえば、次のクロスレビューの藤原央登氏の評価に「演劇でなければならない必然がいまいち見出せなかった」とあるのも、小説的な文体でセリフが書かれていることへの反応のひとつだろうと思われる。ワンダーランド wonderland – 小劇場レビューマガジン おなじクロスレビューで片山幹生氏が述べた「外国語のテクストを、辞書でことばの意味を確認しつつゆっくりと精読するかのように、彼らは自分たちが観察し、感じている日常のなかの違和感、とまどいを言語化していく。」という評価も、その点に触れているのだろう

*4:『エンジョイ』での「ジーザス系」という言葉で名指される浮浪者の姿も、その主題系に重なりあうだろう。

根岸由季さんのソロを見る

根岸由季さんとは縁があって、かつてディープラッツのダンスがみたい!新人シリーズの審査を担当してたときビデオで見たのが最初だった。そのときは、よくわからないけどなんか独特なものを持ってそうな人だな、と思って推したら、その年の賞を取ったのだった。

こんな案内メールをもらって見に行った。

東京ダンスタワー『根岸企画2』のご案内です。
こんにちは。
毎度お騒がせしております。
東京ダンスタワーズの一員、根岸由季と申します。
雪がちらつき、今年も天気が不安定です。
今回のダンスタワーは『根岸企画2』。
ソロをやります。
皆さんにとって適齢期って何ですか。
今回ソロではコトバの端々に思いを込め、体の隅々を綴って行きたいと思います。
是非皆様に見て頂きたいです。

東京ダンスタワーVOL.21「根岸企画2」

3月6日(土)
開演 18:00 (開場17:40)
料金 1374円 子供半額
会場 スタジオUNO
東京ダンスタワーブログ
http://dance-tower.jugem.jp/

関連ブログ記事。
明日になりました。 | 東京ダンスタワー
有難うございました!! | 東京ダンスタワー

なんか、日蓮上人と生臭坊主とかってテーマを決めて作った、テーマを決めて作ることは普段ないのだけど、実験的にあえてやってみた、とアフタートークで言っていた。最初は親鸞でやろうとしたけど、音が違うな、と思って、日蓮は生臭坊主だったってネットで調べたら言っている人が居て、それも面白いと思って日蓮にしたとか言っていた。いや、舞台を見るだけでは日蓮とか生臭坊主とかわからないんですが。

小一時間のソロだが、全体に、前半と後半に分かれていたように思う。

前半は、寝転んで、舌だけを使って、舌の動きだけでダンスするところから始まる。口の外に突き出して左右に細かく動かしてみたり、頬の内側から押し出してみたり。そんな非常に口の中が疲れそうなことをしている動きが、いつのまにか起き上がる動きにつながっている。動きの質感として、立ち上がって舞い踊る動きと、舌だけの動きとがまるで連続しているように感じられたのは、なにかすごいと思った。そこに運動の動機という面で連続するものがあるのだろうか。

中間に、カラフルな粘土をこねくり回している場面がある。それは、座り込んでこねくり回しているうちに、胎児なのか赤ん坊なのか、頭と手足のあるようなものと、胎盤なのか、子宮なのか、脳なのか、二つに割れたようなかたちのぶつぶつとした塊に形作られる。

その後、ゴルフのスイングの真似のような動きから始まって、いろいろな動作やポーズをコラージュ的に組み合わせていくシーンが後半の大きな場面を占めていた。他にもいくつかのシーンや要素がちりばめられていたけれど、それははっきりと言葉にできるほど正確に思い出せないので、描写はこのくらいにしておく。

あれこれ、際立った動作のパターンが繰り返されるところや、なだらかに運動の軌跡が空間に示されていく動きだとか、様式的にはむしろぎくしゃくとしているというか、多様な動きが断続的に舞台に置かれていくのだけれど、そのそれぞれが、なにか瑞々しい。

それらの動きは、ダンスの振りというよりは、ゴルフのスイングであったり、体をそらせて何かを避ける動きだったり、いろいろな所作や動作の引用のようでもあり、そうした、運動イメージにあるぶつかったり撥ね退けたりする触覚的な空間の中から、根岸さんはいろいろなモチーフを拾い上げているようにも見える。

それが瑞々しいのは、きっと、それぞれの動きにたいして、純粋にそう動きたいという欲求から発したものが一貫されているというか、余計なことはなるべくしない、やりたいことだけを抽出して組み立てていくようなところがあったからではないかと思う。

やりたいことをやるというのは、簡単なことのようだけど、実は、やりたいことだけをやりぬくというのは、なかなか困難なことで、ついつい、私たちは、こうやっておけば安全じゃないか、とか、こうやっておくべきだと世の中的にはされているよね、とかという、見かけの義務感みたいなものによりかかって、やりたくもないことをついついやっては安心してしまうようなところがある。

そういう、やりたくないのにやらないといけないとつい思ってしまうこと、やっておくと安心できるようなやらなくてもいい余計なことに、舞台に立つときにも、よりかかってしまいがちで、そういう安心に頼って、なんとか舞台に立ち続けられたことで満足してしまうということも、わりとありがちで、そういう安心に観客も寄りかかってしまうことがあって、それはでも、退屈なことだ。なんか、いろいろわかったつもりになる安心や、偽りの納得によって、そういう退屈に気がつかないふりをしたり、やりすごしてしまうことがある。

根岸さんのダンスが、ほとんど瑞々しいものだけを集めてできていたように思えるのは、そういう、余計なものがほとんど無い時間が舞台に持続したからなのではないのか、と言う風なことを、考えた。

(3月15日記す)